安心な66.7キロ

その体重は66.7キロ(KG)です。前の連休に量った数字でした。人の重さは常に変わっています。66.7とは言え、経験によると65.5から68までくらいの範囲で変わっているでしょう。

因みにBMIは僅か19.3くらいでしたので安心と言えます。

実は、大学に入ったとき、なんと101.5キロでした。最悪のときは、BMIは30に至ったことがあります。今考えれば、そんな「自分」が全く別人であるように思います。現代社会では、本当に体型によって人を差別します。それは分かります。経験しましたから。太ったら、どこへ行っても、酷い目にあいます。例えば、クラスメートからのイジメはおろか、先生や両親などの大人でも、非難されることは少なくありません。尤も強く印象に残っているのは、高校時代に生徒会長の選挙に立候補しようと思ったところ、先生から「自分の姿を自覚して」という話をされました。ダイエットの覚悟は随分早い時に既に決めていましたが、大学入試に配慮して手を出せなかったのでした。

その為、大学に入ってからすぐ行動しました。ナチスの経済政策を参考にして、カロリーの消費を大幅に伸ばしつつ、摂取を断固削減しました。具体的には、有酸素運動(エアロビクス)として競技場の周りを走ります。朝ご飯はちゃんと食べましたが、昼ご飯は平均より半分しか食べないようにして、夜ご飯は少しだけたべる、或は食べないようにしました。お菓子は当然全く食べなくなりました。

幸い今の食べ物はみんな大抵ラベル表示があるので、そのためカロリーを把握し易いです。ダイエットをする時、人々は大体過多なカロリーを摂取していることを分かりました。ちょうど昔の知り合いのブログで同じようなことを言っている本がありました。(「炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学」)

毎日、いつも腹が減って、最低3KMを走っていました。その為、物凄い体験をしました。走っているうちに、精神も鍛えられた感じがします。自分の精神は錆び付いていることを感じていて、その錆を磨くべきと思いました。「菊と刀」で語られた「練達」の状況も、少し分かるようになりました。

つまり「願えば叶う」という感じ。

その証拠は、運動し過ぎて足を怪我しても、自分はまだ自分の精神は弱いと思い、家族に気づかれて止められるまで、1日に7KMも走り続けていました。どうしても走れないときは、特攻隊員の姿と戦艦ヤマトのことを想像すると、急に力が湧いてきました。「精神論」が完全に役に立たない訳ではないみたいです。

頭の回転は悪くなってしまい、成績には多少影響していたようですが、致命的ではありません。1年半の短期間で、体重はどんどん減っていきました。

計画通り、痩せました。

見た目が全然違うようになりました。けれど、なぜか分からないですが、皆さんの評判はあまり良くありません。

両親からは「私の愛する息子は消えた!」

先生からは「君、からだ大丈夫?病院で検査したら?」

他の皆は「〇〇さん、痩せすぎ。」

体型と食習慣、趣味まで変ったようです(でも価値観などコアの部分はそのままです)。「別人」と言っても過言ではないでしょう。

「痩せすぎ」

と言うのは私にとって最高なご褒美。

「いただきます」の件

アニメにはキャラが食事をする前によく大袈裟に「いただきます」と言います。
ドラマにも、キャラはたいてい自然に「いただきます」と言います。
けれど、現実には、少なくとも食堂や飲食店に於いては、「いただきます」という言葉はそんなに頻繁には聞こえないようです。
調べたら、確かに外や、独りでご飯を食べるときには言わないという人が多いです。
「言わなくてもいい」と「言ったほうが躾がいいと感じる」という両方の説があります。
「いただきます」は料理を作った人への感謝の気持ちを伝えるための言葉と言われます。
私の場合、天神様を信じているので自然を敬う気持ちと共に、特に今年から時々「いただきます」と言うようにしています。
勿論アニメのようではなくて、声はもっと小さくて自然に言います。
食べ物を食べきれなくて大量に処分しなければならない時も(うちはよく料理を作り過ぎしまい)、2拍して手を合わせて謝ります。
「いただきます」という礼を表す言葉が、ここでは時代とともに形骸化しているのは少し残念に思いますが、「畏敬」の気持ちさえあれば大丈夫だと思います。
そして、「いただきます」という言葉は、神様に対して「ありがたい」という気持ちだけではなく、料理を作ってくれた人に感謝するという大切な意味もあります。(本人が気付いていなくても)
これからも、「いただきます」を言い続けたいです。

「国慶」連休、人だかりができる上海中心部へ行ってきました

チャイナには、7日間の連休が2つあります。春節と「国慶節」です。

(昔は「労働節」(5.1)もありましたが、もう廃止されました。)

春節のとき、「実家に帰る」という風習があるので、上海は逆に人がめちゃくちゃ少なくなって、1980年代の上海に戻ったみたいです。

ですので、逆に人が必ず大勢いる「国慶」には、上海人が地元で遊ぶのはあまり良くない選択だと思われます。ですが、自分もほかのチャイナ人(「外地人」と呼ばれます)と同じように、上海へ行くチャンスがわずかになった今、仕方がありません。

家族と一緒に、まず繁華街「南京路」へいきました。

やはり、現場は警戒がかなり厳しくて、現場の秩序を維持するための「武警」(準軍人)たちの姿さえありました。武警さんたちは並んでお互いの手を繋いて人間の「ドア」を作りました。

信号灯が緑になると、「一、二、一…」という号令を叫んで「ドア」を開けて、人々を通します。まもなく赤になると、指揮官の命令に従って、「ドア」が段々閉じていきます。

これは、おそらく外国だけではなく、チャイナでもあまり見られない光景かも知れません。十字路の周辺、チャイナ人も外国人も携帯やデジカメから一眼カメラまで使ってこの光景を記録したいようです。

そして、母と話しながら、上海最大規模のソニー専門店やユニクロなど気に入っている店を巡ってきました。とは言え、ウィンドウショッピングしただけです。母は気に入ったユニクロの洋服を買いましたが。

昼ごはんと晩ごはんは、母はまた韓国料理が食べたがりましたが、私は母を説得して、あまり試したことがなかった香港料理を食べてみました。

美味しかったと思いますが、本格的かどうかわかりません。

PS4をやってきた

僕は、平成に生まれた子だけど、子供の時の初めてのゲーム機はファミコンだぞ。(互換機だけど)
そして、従兄のお陰で、PS1もやることがあり、メタルギアやメタルスラッグをやっていた記憶を今でもちゃんと覚えてる。
それで、PS2世代末期にやっと自分のPS2を入手した。
その後、携帯ゲーム機に夢中になり、PSPとNDS両方やっていた。
だけど、PS3世代、即ち高校時代から生活が崩壊し、そのため勉強に専念するため、ゲームに関することには全く無関心になっていった。
その後、大学に入っても、ゲーム機を導入するか否かと検討し、「ゲーム機禁止令」を作って、2年間は自主規制してきた。
今年の春、「ゲームをやめても、勉強の効率も上がらない」という訳で「ゲーム機禁止令」を廃除した。
けど、実際ゲームを再び生活に導入したのは、今秋のことだ。
正直に言えば、今更、自分はもうゲームに興味がなくなった。けど、ゲーム機を持たないとなんか残念な気持ちが出てくる。
PS3の世代が過ごした今、PS3機はもう随分安くなった。
しかし、いつも古いものを買ってきたのは少し嫌な感じがして、いっそう最新型のPS4を買った。
本体は買ったが、ゲームソフトは買う気が薄い。
お金がない訳がないだが、買いたくない。それよりも教科書や小説のほうに投資したい。
おかしいだろう?僕のような奴。

人情が厚い日本人

「日本人は建前だけで、実は皆冷たい」
これは一部の在日中国人留学生の口からよく聞く「経験」です。
こんな話は、私は最初から信じません。
なぜなら、アニメとかの作品のように、フィクションといったらまだ納得できます。
(実は参考になります。)
本格的な小説や実際接してきた経験により、日本人は冷たくないと思います。
例の旅の最後の日、丸一日を目的なく福岡市で散歩していました。
6時半頃、呉服町のあるお好み焼屋に入りました。
せっかくなので、スタッフたちに話しかけてみました。
食べながら、旅の目的、日中の違いから地元の情報まで色々と話しました。
彼らは私に観光地を薦めるたし、地図さえ描いてくれました。
本物の熱意を感じました。
これらも全部「建前」ですか?そうは思わないですが。
深夜、ホテルから近い居酒屋を訪ねました。
歓声ずくめだった居酒屋で、この前行きたかった店です。
入ったら、マスターに向かって奥の席に座って、日本酒とおかずを注文して、皆さんの会話を静かに聞いていました。
店内の客たちは大体常連のようでした。
お互い知り合いらしいです。
携帯の話をしたり、仕事の話をしたり。
まるでドラマみたいでした。
この人たちは、冷たいですか?そうは思わないですが。
例えば日本人たちいは建前だらけの者にしましょう。では、ある所の建前さえしたくない人たちはどうでしょう?

忘れられない玉子焼

あの日は、面接がある為、昼ご飯を食べませんでした。
順番は最後でしたので、そのまま4時間以上待って面接を受けました。
その後、学校から離れ、まっすぐに「貝塚食堂」という店に行きました。
店に入って、スーツを椅子にかけてネクタイを外しました。
本当に意識を失いそうなほど飢えていました。
そして、ダイエット後久しぶりの大量注文をしました。
とは言え、800円台の注文だけでした。
最も印象に残ったのは玉子焼です。
あの店の玉子焼は現場で手作りの物です。
最初にそれを注文しました。
「何か入れますか?」
「適当に入れて欲しい。」
「おすすめの意味ですね?」
と、やって来た玉子焼の中には、なんとチーズが入っていました。
他には確か、ピーマンとネギが入っていました。
本当に美味しかったです。
柔らかいチーズとたまごの組合せ。その食感、今でも忘れません。
こりゃ、例え今回九州大に入れなくても、時々福岡へ行くことになりそうです。

パチンコ屋、日本の闇?

よく考えると、日本ではパチンコ屋をよく見かけます。
大きいビルには「パチンコ」に関連する文字が書いていないけど、「新機入替」とか「年齢検査実施中」という看板があります。
初めて見たとき、全然パチンコ屋と思えませんでした。
散歩してお手洗いが欲しい時、偶然あるモールのようなビルに入ってしまいました。
自動ドアが開けた瞬間、異世界に突入してしまう感じがしました。
音が大きかったです。
人間が耐えられる音量とはとても思えませんでした。
けど、皆さんは平気にパチンコ機を打っていました。
私は早速お手洗いを使って、いち早くそのビルから脱出しました。
マ◯ガ倉庫というところも雅とは言えないですが、子どももよく現れて健全な店と思います。
けれど、パチンコ屋は本当に無理です。
そちらで座っていた人たちとバイトしていたスタッフたちのことを心配しています。

今生初め、ニッポンの土を踏んだ

<img class=”alignnone” src=”http://i1207.photobucket.com/albums/bb479/Mikan_SH/DSC_0183_1.jpg” alt=”” width=”1024″ height=”576″ />

<img class=”alignnone” src=”http://i1207.photobucket.com/albums/bb479/Mikan_SH/DSC_0179.jpg” alt=”” width=”1024″ height=”576″ />

9月15日、私は日本へ行った。

懐かしく思った通り、これは今回主な感想だ。

面白いバス運転手さん、ルールを守る皆さん、野球場、食い物のおいしい味など。

全てのことが思った通り現れていた、自分も違和感なく速やかに周囲と一体になっていた。

ガキの時、人生を救う為に世間知らずの自分が好感を持っている日本の文化及び価値観を導入すると決めた。

「中国人」の道から乖離して、人格の半分が日本人の今の私になった。

幸せだった、皆さんと一緒に歩く、一緒にご飯を食べる、一緒に話す、一緒に試験を受けるなど。

中国にいた時と違って、日本には人が多いところのほうが気に入る。身の回りの人々が日本語を話している場所に居たら、久しぶりの安心感が溢れていた。

写真があまり撮らなかった。ヘッドホンを差し込む時間も少なかった。

本当に好き、愛している。私に対し、ニッポンはまるで一目惚れの女性のようだ。

いずれ、また行く。いずれ、一体を成す。

九州ショック

一、背景

九州大学経済学部の編入試験は英語だけ受験可能だから、自分の得意モノを最大限アピールできる試験と思った。結構自信がある。

出願期間は8月24日~28日、試験日は9月17日である。

他のターゲット校は皆大体11月で試験を行われて、90日の査証を申し込んだのは九州大のための割が大きかった。航空便を予定して、親の数ヶ月の給料を散財した。

二、経緯

前期、九州大の教務先生とメールで連絡の時、「早めて発送できるが、できれば出願期間のうちに届けて欲しい」と言われて、元々19日や20日くらい発送するつもりだった。

最後、経験によって、上海から福岡は普通EMSで3日くらい届くので、21日に発送した。最初から嫌の予感があって、まさか後ほど本当に最悪の事態になっていた。

21日、願書が上海国際交換局から発送された。気になるのは直接「新福岡郵便局」へ発送されるべきなのに、関係ない名古屋の「中部国際郵便局」へ発送されてししまった。

25日、朝早くサイトで追跡してまだ名古屋に到着していなかった。この時緊張感があるれてた。早速チャイナポストと連絡し、クレームが始まった。一方、九州大と電話をかけて、先生たちはイライラしていた。「締切を超えたら無理、28日まで待ちなさい、こっちが台風があるので遅れるかも」と言われて、当日九州が15号台風に酷くやられた事を分かるのはその後の話だった。

26日、追跡はまだ動かなかった。緊張が精神崩壊の方向へ進めていた。クレームし続けた。向こうに「照合結果は15日をかかるかも、大人しく待ちなさい」と言われて、「28日後意味がない、むしろ何もしないほうがいい、好きにして。」と返事した。その後精神崩壊になり、泣いて叫んだ。昼の時、追跡は終に動いた。一体クレームのお陰なのか、それとも神様の恵みなのかわからなかった。夕方「保税運送中」になって、福岡に向けた。

27日、無事に新福岡郵便局に到着。

28日、午前九州大に届け済み。

三、教訓

1.自分今までの人生方針を反省した。消極な性格を変えるべき。

2.シンリさんは私が運が強いと言って、よく考えれば確かに自分の運が良いかも知れない。

3.「最悪を想定」を基づいて行動すべき。今回のけん、24日という上限を無視して早めて郵送すればきっとそんなにギリギリな状況を避けるはずだった。或いは、複数の書類を用意して再び郵送する。

4.ネットは幻なモノとは言え、やはりそれだけではない。この事件で応援してくれるネット友がいる。ベッキーねえとシンリさんから色んな暖かい言葉を貰った。本当に嬉しい。