「あの時・下」ピリオド

Mさんは決してかわいいとはいえず、7歳年下という若さがあるものの、20代から熟女好きな性癖が確立された私にさほど意味をなさない。しかし、その明るい性格や、どこかこの子を守ってあげたい雰囲気は魅力的だった。大晦日の夜から朝まで語り尽くしたあの日は確かに幸せだった。微笑む19歳だった彼女、お互いの体を貪り合う日々。青春を共有してくれた彼女に、私は責任を感じていた。

大阪から東京に帰還できたが、Mさんの私への態度はむしろ厳しくなっていった。言葉遣いや声の大きさ、歩く時の足音など、ちょっとした「間違い」でも喧嘩にタネになりかねなかった。何より対等な関係を築けていなかった。表面上、私が年上だったし、年収も高かったため、一見私が家を仕切っているように見えた。実態には、Mさんの意向が最優先だった。

Mさんは夫婦関係において言い合いや喧嘩があり得ないと信じ込んでいた。2人の妥協点を探るための必要な話し合いすら、受け入れようとしなかった。意見すると、彼女はすぐ「一緒に住めない」と言い出すので、毎回私が折れるしかなかった。そのため、喧嘩のたびに、形式上は必ず彼女が正しいという結果になっていた。

一例として、Mさんが勝手に退職した件において、最終的にそれに激怒した私の態度が問題にすり替えられた。さらに、2人の間に不愉快な出来事があると仲直りすることがなく、私の立場はますます悪くなっていった。要は減点方式だから、夫として正当な振る舞いをしただけで、関係が悪化してしまっていた。

どんな仕打ちを受けても私はMさんとの結婚を諦めたくなかった。「話し合おう」とスローガンみたいに訴えても、離婚騒ぎに疲弊した私は本音として早く終わりにしたかった。それでも2人の出会いと過去を念じて、自分にもMさんにももう一度チャンスを作ろうと、離婚届の不受理届を提出した。もはや破局を避けられない最終盤では、Mさん宛の国民保険の督促状を見て経済的に苦しんでいるかと思い、「今年ボーナスが多かったから」と適当に理由をつけて急遽10万円を振り込んだ。

離婚してから、私は繰り返し、自分の中で前の婚姻がなぜ破局に至ったのかを検証してきた。若い女性としてわがままを言うのは理解できるが、Mさんの場合は明らかに度が過ぎた。距離をおいて冷静に振り返った結果、MさんはASD、いわゆる発達障害だったのではないかと思う。空気を読めず、言葉をそのまま受け取る、他人の気持ちを想像できない、マルチタスクが苦手など、当てはまる特徴は複数思いつく。喧嘩するたびに、私が譲ってあげたため、彼女は本気で自分が悪くないと思ったかもしれない。

財閥系企業での就職、神社で出会ったお嫁さん、学生時代に目指したこの2つの目標はいずれも短命に終わった。相性を無視したイデオロギー優先の人生計画に、現実が無情にピリオドを打った。

大阪での勤務とMさんとの婚姻において、私が受けたダメージは大きい。言うまでもなく、これらの出来事自体はトラウマであるが、私のキャリアにも大きく影響した。大阪での1年は私のキャリアにとって全くもって無意味であり、また、詳細を綴れないが、Mさんとの離婚騒ぎに疲弊し、心身が弱まっていた自分に、攻撃を仕掛けてきた人が何人かいた。一時休職に追い込まれかけた。

「あの時・上」大阪、孤立とパワハラ

大阪で起きたことに関して、私は自分が100%正しかったと思っていない。社会人が経験浅かった自分は人間関係において失言したことあるし、業務においてミスが多かったのも事実だ。一方的に他人に責任を押し付けるつもりはないが、それでも当時の職場環境が酷かったと思う。また、具体的な理由が不明だが、当事者のS課長は私の退職後、降格されたらしい。A先輩が退職、部長も引退した。

S課長と部長は最初いい人そうに感じた。当時転勤手当をもらえなかった私に、部長から月1の出張という形で経費で東京に帰らせていただいた。この黙認はその後関係の悪化につれ、取り上げられたが、初め頃は優しかった。

S課長は同業他社から転職してきた人で、当時課長に昇進されたばかりだ。前職では経理部長職も経験されたようで、管理職として初心者ではなかったと思う。京都弁が面白かったし、京大卒というところにも勝手に親近感が湧いた。しかし、私が着任した頃すでにS課長の評判が悪く、平社員の間にしょっちゅう悪口を聞いた。上記のように自分への配慮もあって、とてもS課長は皆さんの言うような悪い人ではないと思ってむしろS課長の味方になろうと思っていた。

最初の豹変は今でも覚えている。会議でA先輩が何かを間違えて、その後S課長との雑談で私は「A先輩が間違ったことに気づいたが、会議であえて言わなかった」と軽く語った。その時、S課長は急にすごい剣幕で「なんでその場で言わないの?ムカつく。お前が居る意味ないじゃん」と私に怒鳴った。耳を疑うような反応で私はその場でどうすればいいかわからず、とりあえず「申し訳ありません」とひたすら謝っていた。

その日を境に、私は頻繁にパワハラを受けるようになった。具体的に、まずミスをしたら仕事が取り上げられてしまう。複雑なExcel作業でも、一回の説明でマスターすることを求められていた。要は減点方式だから、新卒2年目の自分は追いつけるわけもなく、仕事がどんどんなくなり、やがて郵便物の確認やホチキス留めといった庶務がメイン業務になった。それでもやむことなく文句をつけられ、部署宛の郵便物を開封しただけで皆さんの前で怒鳴られたことがある。あまりにも理不尽だったので、他部署の方から「なんだあの人?みかんさんは悪くないよ」というメッセージももらった。

仕事がないうえ、場所を問わずに頻繁に怒鳴られて会社での居心地が最悪だった。周りからパワハラで訴えたほうがよいという声もあったが、丸く収めようととりあえずS課長と相談してみた。長時間説教されたが、意見交換ができてある程度のガス抜きになっていた。相談している間にS課長の態度は比較的「普通」に戻ったが、普段のパワハラは改善する様子がなかった。「何をすれば認められるか」という問いに対して、S課長の答えは「自分で考えろ。仕事だけできても不十分だからね」だった。出口の見えない日々が続いた。

S課長だけではなく、先輩Aも大概なものだった。先輩Aの話は他の投稿でも触れたが、あの執拗に私の日本語力を攻撃した人だ。先輩Aは頭の回転が早い方ではなかったが、経験豊富で大事な業務を担当していた。S課長に期待されていたけど、残念ながら先輩A本人はS課長のことが大嫌いだった。正面でぶつかってから、先輩Aに徹底的に疎まれるようになり、変な話になるが、S課長と一緒に居たほうが落ち着くと感じた。当時の感触として、先輩Aは私に学歴か語学力か何かしらのコンプレックスを持っていたと思う。それゆえ、変にライバル視されてまともに付き合えなかった。

新卒社員の採用が決まり、1年間何もやらせてもらえなかった私よりその新卒の人が大事にされる未来は目に見えたため、転職に踏み切った。単身赴任解消のことを考慮せずにも、もうこの会社に居られないと判断した。先輩Aを含めて、同じ年度にすでに3人の退職者が出た経理部で、私の転職を聞いたS課長はショックを受けたようだ。私を責めることなく、むしろ優しくなって「内定が決まるまで誰にも言わないでよ、酷い目にあうから」とも助言した。大阪勤務のために用意した家電家具が台無しになった話に「今度転勤があったらとりあえず家具付きの物件にしよう」と言われ、S課長と久々に雑談できてなぜか悲しくなった。

S課長のパワハラに関して私は公にしたことはなかった。退職後、組合からヒアリングがあって「パワハラを受けたか?」と聞かれても否定した。ただし、経理部内への退職挨拶と別に、前部署、人事部と私を採用した役員に別途長文を送り、経理部を間接的に批判したことはある。

繰り返しになるが、当時の自分は非協力的な前妻に疲弊し、仕事に集中できなかったのは事実だ。そして、アメリカ採用だから、舞い上がって経理部に転勤した直後の態度が軽かったのもある。それでも徹底的に私を追い込んだ経理部は新人潰し以外の何物でもない。今振り返ってみれば、早い段階で部長や人事部に相談し、それから転職するかどうかを検討すべきだった。

ボストンまで行って懸命に勝ち取った内定はわずか2年半で終わった。アメリカ駐在や大企業での出世もなくなった。会社名が書かれているストラップ、社員証と社章は人事部と合意し、紛失扱いという形でもらって、今でも大事に保管している。

欧州遊記、アナザー

現地の物価が高い

今回は大型お土産を購入していなかったが、それでも現地での支出は予算を30数万円オーバーした。現地の移動費用を見積もっていなかったことも一因だが、やはり現地の物価レベルが高く感じられた。スーパーで食材を買って自炊すれば格安で過ごせそうだが、外食は高い。とくにヴェネツィアでの外食はお酒を注文しなくても常に100ユーロ近く上る。ドイツに入ると、トイレさえ有料だった。

Tax Refund(免税)

ヨーロッパでは、日本のようにその場で消費税が免除される制度はなく、「Tax Refund」という還付制度が一般的である。お店で申請手続き(Claim)をし、空港の税関に申告したうえ、カウンターで還付申請を終える流れだが、私がこの制度の存在に気付いた時はすでに旅の終盤だった。当然申請しそびれた買い物も発生してしまった。

不思議なことに、お店から還付制度のことについて案内されることはほとんどなかった。しかも、そうした対応は一部の店舗に限らず、ベルリンの大手百貨店を除いて、どこでも免税については触れられなかった。Global Blueのアプリを入れておけば、身の回りにある対応事業者をすぐ調べられるので、予め用意しておくのをおすすめする。

プレスティアが一番お得

今回の旅行において、エポスカード、三井住友カードとプレスティアという3枚のカードを利用した。結論から言えば、思い切ってキャッシュを用意してプレスティア一本で使ったほうが一番お得だと思う。

プレスティアとは、SMBC信託銀行が発行しているデビットカードのことである。入会するために一定のハードルがあるが、海外のATMで無料(条件あり)で現金を下ろせるし、VISAで決済する時に外貨預金をそのまま落とせる。クレジットカードで安易に決済すると、為替レートに手数料が上乗せられる仕組みになっている。しかも、同じVISAブランドであっても、為替レートに差があると思わなかった。

プレスティア:164円/ユーロ(外貨をそのままTTBレートで購入する場合)
エポスカード:166円/ユーロ
三井住友カード:170円/ユーロ

エポスカードに関してよしとして、三井住友カードの手数料は普通に暴利だと思う。幸い今回三井住友カードの利用が少なく、主にエポスカードで決済していた。

現地語の勉強が不要で英語を押し通す

特に興味がなければ、予め現地語を勉強する必要ないと思う。理由として、中途半端に現地語を覚えて使っても結局相手も現地語で返してくるため、あまり意味を成さないことが多い。「こんにちは」、「Excuse me」程度の挨拶もどれぐらい実用性があるか微妙だった。英語だけで十分通じるので、自信を持って使い通せばよい。

また、複数の国を回るとなると、それぞれの国の言語を身につけるのは現実的ではない。私は学生時代にドイツ語を勉強したことあるので、ミュンヘンの一件で意地を張ってドイツ語を拾ったが、脳みそが素直に疲れた。それと対照してイタリア語を覚える気がゼロで、フレンドリーなイタリアの方々に申し訳なかった。

ヨーロッパへの移住について考える

今回の旅行の本質に触れるテーマだが、アメリカとヨーロッパの両方に実際足を運んだ結果、日本は一番住みやすい国であるという結論に至った。人間社会の限界点でもあると断言する。日本を諦めてヨーロッパに移住することはないと思う。

一方で普段エスプレッソを飲み、イタリア料理を作り、限りなくヨーロッパ的なライフスタイルを送っている自分にとって、異文化としてのヨーロッパに対しては抵抗感よりむしろ親しみすら感じる。特定の現地語にコミットし、あくまで一人の日本人としてなら、中長期での滞在はあり得る話だと思う。

しかし、キャリアへの影響や、特に来るべきであろう子育てなど、現実を踏まえるとやはり難しい。

欧州遊記

4月末から5月初旬まで約2週間ヨーロッパに滞在していた。(再婚)の新婚旅行という位置付けだが、キャリアに不確実性があるうえ、資格試験も忙しい時期に正直に言えば、ストレスフリーの状態で旅を楽しむ心境ではなかった。一方で、近い将来の出産や子育てを考えると今行動しなければ今後なかなかチャンスがないのも事実だった。

今回の目的地はヴェネツィア、インスブルックとベルリンの3地で、ヴェネツィアから鉄道で北上し、ベルリンから飛行機でヴェネツィアに戻って帰国する流れだった。正規ホテルをほとんど使わず、民泊(Airbnb)を中心に宿泊していた。ゴンドラに乗りたい、ブランデンブルク門を見たい、といったアバウトな目標以外一切計画しておらず、行き当たりばったりな旅にした。

ヴェネツィア

ヴェネツィアの旅に関して基本的にARIAの聖地巡礼が目的で、遠い約束に区切りをつける一種の「宗教的」行為だった。そのためにARIAの旧単行本の最終巻を持参していた。船乗り(ゴンドリエーレ)がほとんど男性であることを事前に理解しているし、本島の運河が少々臭うことも許容範囲内だった。

ゴンドラの料金は、30分のツアーで90ユーロという政府が定めた相場らしい。支払いは現金のみ。実際乗ってみた感想としては、ARIAに興味なければ乗らなかったと思う。当たったゴンドリエーレは基本的にフレンドリーだけど、途中3回ぐらい電話していた。見どころを紹介してくれたが、英語が下手で何を話しているか半分程度しか聞き取れない。私より英語が得意な妻も同感だった。ご本人に悪いけど、これは私の素直な感想である。

サンマルコ広場には、鐘楼に面してテラス席を設けている生演奏付きカフェは3軒ある。基本的にどのメニューもプレミアム値段になっているから、ガチ食事ではなく、場所代だと思ってコーヒー一杯(おかわりもフルプライス)にとどまって楽しむことをおすすめする。

ヴェネツィアの最終日、誰もいない袋小路でギリギリまでペット用品ショップの猫と触れ合っていた。猫ちゃんに首輪が付いていたから、野良猫ではないことがすぐわかった。お店にもう1匹猫が居たが、店主の雰囲気に少し違和感を覚えたので、さっさと退散した。後でGoogle口コミを見たら、どうも店主のメンタルに問題があるらしく、観光客に乱暴な態度を取るコメントが多かった。

インスブルック

ベルリンへの中間地点として適当に選んで泊まってみたが、結果的に大当たりだった。小さい町だけど、大きな駅を持っている。アルプス山脈に囲まれており、どの方向を見ても山が広がっていた。動物園を回った後勘違いでケーブルカーで山頂まで行ってしまったが、絶景を見えて満喫した。雪も溶けない高度だったから、さすがにシャツ一枚がきつかった。住民がものすごくフレンドリーで困っている顔したらすぐ誰かが助けてくれる。

ベルリン

ベルリンに着いた日に小雨もあり、変な花粉(?)果実(?)が飛散している地域に入ってしまって咳が止まらず、第一印象が最悪だった。事前予約した国会議事堂に入れたし、ブランデンブルク門も見えて当初の目的を達成できた。妻はなぜか東ドイツやベルリンの壁に興味があって、DDR博物館を訪ねた。バスも電車もチケットを見る人が居なかった。

現地食の重さでベルリン入りの時点でお腹がとくに限界に達したので、ドイツ料理というより和食や中華を中心に諸国料理に手を出していた。一部認定店以外、基本的に東南アジア系の人が和食をやっているようだ。接客態度がいまいちだが、味は基本的に合っている。百貨店のKaDeWeで食べたドイツ料理(?)のザリガニバーガーが美味しかった。

ベルリンの猫カフェCatnip Coffeeの猫ちゃん

(ミュンヘン)

遅延が有名なドイツ系電車に大胆なスケジュールを組み、ミュンヘンで乗り換えることに成功したのも、すごく不快な出来事に会ってしまった。駅の売店からパンとコーヒーを買おうと、咄嗟に「アメリカーノ」を注文した。アジア系店員がすごく不機嫌そうな顔で「Kaffee?」を聞かれたが、隣の白人おばさんに何かを言われたか急に調子に乗って笑いながら「We’re German!」を連呼していた。それから一方的にドイツ語を喋り、英語を拒否する様子を見せられた。このアジア系店員の仕草や見た目で判断するとおそらく中華系であろうと思うが、白人でもないのになぜそんな失礼なことをするか、いまだに理解できない。思えば以前ニューヨークのお店でもアジア系の人に難癖を付けられた経験があって、コンプレックスなのではと思ってしまう。

母国との関係改善、敵視から活用へ

最近憎んでいた母国との関係は急速に改善している。長年アイデンティティの不安定に苦しめられたが、日本国籍の取得によって問題の根源が取り除かれたような気がする。出身に対するコンプレックスが消え、感情的に母国と母国の文化を以前より受け入れやすくなった。

そもそも母国を拒否するようになったきっかけは、まず元々中国という国自体は決して良い国とは言えず、さまざまな問題がある。そして自分の生まれ育った家庭にも深刻な機能不全があった。両者が相乗し、アンフェアと高圧的な環境を強いられていた。私の日本移住は好きな国に住みたいという自己実現以外、そういった環境への反発、革命でもあった。

日本国籍の取得はこの革命において自分の完全勝利を意味する。決着がついた今となっては、敵視し続けるメリットもないから、ある意味でごく自然な帰結とも言えるかもしれない。

母国での権益

日本も中国も二重国籍を認めないため、帰化審査の最終段階において中国大使館で国籍の離脱手続きをした。少し遅れて反映されるが、中国国内の戸籍もその後強制的に抹消された。これによって私の中国国内における権益は一旦リセットされた。

両親が存命する限り、親族訪問の長期滞在ビザが降りる。こちらのビザを用いて現地で銀行口座を持てる。中國銀行東京支店と組み合わせて使えば資産の移動が簡単となる。おそらく必要がないが、現地で正社員として採用されれば、中国の永住権の取得も難しくない。

面白いところとして、中国に残された華人の直系親族(=両親)を守る法律があり、財産の安全、国外移動の自由と通信の自由が強調されている。

ルーツの活用

ここでの「ルーツ」とは、中国に限らず、香港や台湾を含めた中華圏全体に該当する。以前の投稿でも触れたが、業務において利益につながる中国と中国語関係の仕事を条件付きで解禁している。政治と経済では日本とのつながりが強い台湾はもちろん、中国のプレゼンスも日に日に無視できなくなっている。ただの翻訳要員ではなく、れっきとしたビジネスとしてこのルーツを活用できれば、あえて拒む理由ない。

これまで感情的な理由から中国語や中華圏に関わる仕事を自ら避けていたが、今ではそれらを戦略的資産として捉え直し、いわば、使えるカードをすべてテーブルに出すつもりだ。

また、皮肉なこととして、中国と台湾はお互いのことを国として見ていないため、中国人として台湾で働くことが難しかったが、この中華圏の軋轢から解放された今、むしろ日本人として台湾で就職することも可能になった。

目的は利益最大化

こういう投稿を書いて保守だった私がご都合主義の中国人に成り下がったかのように思われるかもしれない。過去に抱えていた過激思想は確かにフェードアウトしたが、基本的に日本の国益を考える姿勢に変わりないし、天皇陛下と神道を中心とした国のあり方という保守的な価値観も根強く大事にしている。今回の方向転換はあくまで無意味な意地を排するための一種の合理化に過ぎない。

人の同窓会

先日、妻の同窓会に参加した。ホームカミングデーといえば、まず懐徳館の一般開放が思い浮かぶ。構内に散歩して、安田講堂を回って記念品をパクって帰るとか、実際前妻といっしょに経験した。

そういうふわっとした気持ちで妻の誘いに応じたが、妻の知り合いもいるかも知れないと思い、きちんと髪を整えておしゃれな服を着て向かった。これは正解だった。私大の同窓会を過小評価したものの、それなりに準備したから結果的にセーフだった。

会場は活気を帯びてすごく賑やかだった。ただ席に座り、偉い人の話を聞くだけで終わるのではなく、ビュッフェパーティー形式だった。出かける前にがっつりお昼を食べたうえ、ポテチも口にした自分は痛恨の極み。妻曰く、彼女もビュッフェがあることを知らなかったそうだ。それでもお昼から2〜3時間が経っていたから、若干不健康だが、とりあえずローストビーフ、カルパッチョとお寿司をひたすら食べていた。ちなみに、前日の夜もお祝いがあってすしざんまいですでにお寿司を食べたので、この思わぬビュッフェはもったいなかった。

私大の雰囲気は(私の中の)東大と違う。卒業から5年も経ち、来場した方は基本的に立派な社会人になれたのはほとんどもあり、社交的で生き生きとしている。テレビ局勤務の卒業生が司会を務め、紅白出場経験のある有名サークルによるパフォーマンスもあった。東大といえば、そういった芸能関係のお話はあまり聞かず、あっても政治評論家ぐらいだ。そして、一番大きな違いは、結束力にあるのではないか。同窓会の最後、応援団が締めを担当していた。吹奏演奏と応援エールの中で、みんな校歌を歌い始めた。私も流れに飲み込まれ、手を上げて校歌を歌った。ネームカードを書く時に冗談で「東大卒を書こうか」と言ったが、本当にそんなふざけた真似をしたらトラブル必至だったと思う。(実際「他大卒 家族」と書いた)

来場した方に子連れが多く、発言する際にも「妻が」とか「子どもが」とかをよく口にした。なんとなく自慢気味に聞こえる。一方で、「独身そうな人を探そう」だと婚活パーティー気分で来た人も一定数居たようだ。大学受験を勝ち抜き、次は就活で勝敗、さらに婚活も通し、子作りも手抜きせずにここまで来て、それは人にアピールしたがるよね。人間は結局こういうものだなと帰り道にさまざまな思いが巡った。

同窓会が終わり、あたりはすっかり暗くなっていた。余分なカロリーを消費することも兼ねて、妻の昔話を聞きながら、ゆっくりキャンパス内を散策していた。お互いそれなりに社会人をやって、学歴の虚しさを知っているから、普段はあまり大学の話をしなかったが、久々母校に戻った妻はキラキラに見えた。楽しくなかった、就活が辛かったと言いつつ、やはりこの大学に誇りを持っていると思う。

銀座生活のお休み

正月に妻を連れて3日をかけて東京を散策していた。予め方向を決め、この3日間にそれぞれ秋葉原、東京タワーと神保町を目指した。出来るだけ大通りを避け、裏道を周り、歩きながら都度有名な建物や地域の歴史を妻に紹介し、まるで自分の東京時代への総決算のようだ。私の銀座暮らしは年内に一段落がつき、生活拠点を千葉の田舎に移すのだ。

日本橋と銀座、いわゆる旧東京市京橋区に引っ越してきてからはや6年目に突入する。銀座を舞台とする東京女子図鑑を観た時点でまだ銀座が自分にとって無縁な場所だと、これからも笹塚のような庶民的な土地で過ごしていくかと思っていた。まさか、社会人デビューしたらすぐさま銀座の近くに引っ越したし、今では銀座のことを愛し、銀座の住民として自負しているなんてとても予想できなかった。

銀座といえば、ハイブランドのイメージが強いが、歴史と伝統を重んじる上品さ、高層ビルを絶対建てない矜持は私を魅了する。銀座でビルを建てる際に「銀座ルール」が課せられ、「銀座らしさ」を問われる。例えば、高さ56メートルを超えるビルは通常許されない。都心を少しずつ蝕む忌々しい高層タワー型施設を、銀座が拒否する。これは銀座が他の商業地域と一線を画した最大な特徴ではないだろうか。

銀座は富裕層だけの街ではない。少なくとも私にとって、銀座に住むに身の丈に合わないと思ったことない。参考として、麻布台ヒルズを見学した際に、私は赤裸々にクラスの違いを覚えた。あるいは渋谷富ヶ谷の住宅街、とても私みたいな人が居るべき場所ではないと思った。銀座ではそのような感覚があまり湧いてこない。

肉のハナマサと最近できたオーケーマートを加え、総合スーパーは2軒もあるし、ユニクロと無印は以前から出店している。基本的なお買い物に全く困らない。三越のデパ地下に4丁目のイタリアン、築地のすしざんまいも月数回であればさほど負担にならない。裏通りからしか入れない隠家的なあのとらやでも月1回程度であればプチ贅沢として受け入れられる。土日に歩行者天国も実施しており、世界中の人が集まってきて市民的な雰囲気が漂う。

徒歩圏内に各種デパート、レストランや専門店などが多数集積しており、区役所、警察署と図書館といった行政サービスも充実している。要は生活のすべてが徒歩圏内に完結できるし、日本のすべてがこの徒歩圏内に揃っていると思う。限りなく完璧な都会生活に近く、これ以上便利な場所はもはや存在しないではないかと確信している。笹塚に戻りたい発想がとくに捨てられ、一時にペアローンで近場の億ションを購入することさえ検討した。

これからの育児のために、やむを得ずにこの完璧な住所とお別れする。現に千葉勤務の妻に毎日片道1時間の通勤をさせてしまい、下り線が空いており、必ず座れるとはいえ、かなり負担を感じているようだ。また、せっかく妻の地元が近いのに、義父母の力を借りないのは勿体ないし、妻の親類が集まる地元のアドバンテージも魅力的だ。よそ者の自分にとって、田舎とはいえ、「地元」を作るのは簡単なことではない。

二拠点生活も考えたが、大阪時代の経験を鑑みてきっぱりやめておいた。二拠点生活とは、2つの家の維持費を払い続けることを意味する。家具と家電も2セットを揃えなければならない。大阪時代に私はまさになんでもかんでも2セットで揃えたが、大阪から退去したときに大金で揃った品物はもれなく二束三文になってしまった。一旦生活の中心を千葉に移したら、銀座に泊まれる日はどれぐらいになるだろうか。大阪の二の舞いに絶対なりたくない。

私の銀座開拓に関して、正直まだ浅い。行ってみたいお店が山程あるし、知らないお店もたくさんある。いつか胸を張って銀座に詳しいと言えるように、子どもたちを大学に送ってからまたポチポチ開拓し続けようと思うが、ライフワークになりそうだ。

亡霊②

空気は青みを帯びており、まるでドラマで早朝を表現する光景だった。私は車から降りて一軒家から出てきた元義弟に軽く挨拶した。部屋の中を覗いてみたら、そこにソファで横になっている元妻がいた。タオルケットをかけて生気がない。まるで人形のようだった。

翌日妻との会話で偶然この夢の光景を思い出し、猛烈な悲しみに襲われてしばらく黙り込んだ。別れた悲しみというより、自分は人の人生を壊したではないかという自責に陥っている。私と付き合わなかったらもっと普通な人生を送れたのでは、少なくともこれほど傷つかずに済んだはずだと思う。

ちょうどその時期にサイレントヒル2関連のコンテンツに多く触れていたし、それによる影響もあったかと思う。不治の病を患った妻のメアリーの看病に耐えられず、メアリーを殺したジェイムスに、精神不安定の妻に寄り添えず、離縁の決定打を打った自分を重ねてしまう。

元妻と別居してから1年以上経つが、その存在が記号のように頭から離れない。ほとんど毎日何らかの形で元妻のことを口にする。元妻が残した物には、迷わずゴミ箱に入れる物もあれば、こっそり倉庫にしまい込んだ物もある。選別の基準に一貫性なく、非常に中途半端な気持ちにいる。思い出の品だったらまだしも、ご本人にとってもゴミに等しい古びた洋服も一定数抱えており、私自身もうまく理由を説明できない。

猫や妻との幸せな時間を差し引いても、今の自分はこの有り様だ。順調に再婚できていなかったら、果たして私は日常を保てていただろうか。誤会されたくないところとして、私は別に元妻と復縁する気持ちは全くない。これに関して離婚の際に私がはっきりに元妻に告げたし、現に再婚もしており、復縁なんて絶対考えられない。しかしながら、私は元妻の安否を心配する。自殺を仄めかされたこともあったし、果たしてまだ生きているかどうかすら分からない。

外国語としての中国語

先月、台湾主催のTOCFL(華語文能力測験)を受け、無事に最上級に受かった。これによって、私があくまで「外国人」として中国語ができることを保証された。試験自体は決して簡単ではなかったし、文章自体が読めないし、選択肢4つの意味いずれも分からない出題もあった。また、馴染みのない台湾国語の発音と言葉遣いもあり、最上級が落ちてその次の評価に転落する可能性も十分あった。

「ネイティブ」というのは嫌な言葉だ。あまり語学に詳しくない一般の方々にとって、ある言語のネイティブに対して、あたかも無条件にその言語を上手に操れるようなイメージがあるようだ。実際なところ、ネイティブだからといって、その語学レベルは必ず大学での勉強やビジネスのニーズに対応できるとは限らない。

一般的な定義によると、私は中国語ネイティブだが、子どもの頃から中国語が苦手だった。人の中国語を聞き取れず、発音と文法が難しく、中学生になっても先生に簡単な説明もできなかった記憶は今でも鮮明に覚えている。一方で、偶然ラジオの日本語講座から聞いた日本語に親しみを感じ、簡単にその場で正確に発音できて覚えた。

得意といえなくとも、大卒まで20年以上メインに使った言語だったが、かなり廃れてきて両親との日常会話においても支障が来ている。職場で翻訳系の仕事を頼まれた時にそれはもう大変だった。日本語力を可能な限り伸ばすため、私は過去10年間まともに中国語を使っていなかった。アイデンティティは言葉からとも言うし、中国人を辞めたかった自分は中国語を口にすることを忌避していた。つまり、私の中国語力は自分によって無理やり壊されたのだ。

中国語に依存しない生き方を貫いた私は中国人のコミュニティから離れられ、カルチャーレベルで中国人を辞めることができた。しかし、私は日本人になりきれなかった。どんなに頑張っても訛りをきれいに消せない。未だに日本人であれば誰でも知るのに、私が知らない表現によく出会う。これらだけだったら、私としてさほど気にしないが、一番の課題は私にとって普通の日本人として生きていくとかなり不利なハンディを持ってしまうところだ。

周りから受けた露骨な差別が少ない。年々減少傾向になり、帰化してからほとんどなくなった。それより、差別とまで言えない「区別」を感じる場面は依然として多い。具体的に、周り一部の人から「みかんではなく、可能であれば、本当の日本人と働きたい」という雰囲気を受け取る。ミスがあまり許されない気がする。例えば、本当の日本人だったら、5回までミスして良いが、私が2回もしたら首を切られる。上記日本語の問題もあり、同じ努力をしても、相手によって評価がディスカウントされる。

自分は本当に中国語を捨てる余裕があるだろうか。今更中華圏に戻りたい気がさらさらないけど、せめて選別したうえでうまいところだけでも拾ったほうが良いのではないかと、最近よく考える。そこで、私がたどり着いた結論は、外国語としての中国語なのだ。ネイティブレベルの中国語ではなく、あくまで外国人としての中国語力が求められる仕事にも関わることで一定の差別化を図る。実態より一番近いし、アイデンティティに傷つかずに現実と両立できるちょうど良い落としどころだ。

中央自動車学校の閉校と想い

最近海外に行くことになり、MTが主流である現地事情を受け、ふと限定解除を考え、とりあえず値段を調べることにした。以前免許を取った中央自動車学校のホームページを検索してもなかなかヒットせず、「中央自動車学校 木場」というキーワードで検索して初めて中央自動車学校が2022年3月末に閉校したことを知った。

閉校自体は2021年11月あたりにアナウンスされたから、私が中央自動車学校で免許を取った半年後の出来事だった。それほど愛着がなかったはずだが、一抹の寂しさを覚えた。そもそも、在学中だった私はかなり態度が悪くて車校に通うことにめんどくさっていた。ペーパーテストが落ちて再受験したし、実技も再受験で辛うじて合格した。後になって自分も驚いたが、ある日タクシーで車校に通った際に、イライラさを抑えきれず、タクシー運転手に当たった記憶もいまだに忘れられない。

今も別の問題を抱えているが、当時の自分は内面的に様々な問題があった。20代後半で初めて免許を取得しようとする屈辱感、彼女に振られて婚活もうまく進まない焦り、初任給高い仕事に就いたものの放置されていた不安な日々。そんなくだらないプライドを捨てて、もっと素直に車校を楽しむべきだったと今になって思った。少なくとも、無駄に抵抗感を持っていたのはダメだったと思う。実際免許の受験もスムーズ行かず、余計に時間を費やしてしまった。

中央自動車学校の跡地に大規模賃貸マンションを建てるらしい。上京してから東京は常に変化している。思い出の場所はどんどん減り、その度に心が揺さぶられる。神保町の三省堂本店、1階の雑貨、勤務していた2階のカフェと地下1階のドイツ料理のお店が一気に消えた。いつの間にか閉店した茅場町の牛まい豚まい、韓国人おじさんの家庭的な接客がなぜか懐かしい。