先月、台湾主催のTOCFL(華語文能力測験)を受け、無事に最上級に受かった。これによって、私があくまで「外国人」として中国語ができることを保証された。試験自体は決して簡単ではなかったし、文章自体が読めないし、選択肢4つの意味いずれも分からない出題もあった。また、馴染みのない台湾国語の発音と言葉遣いもあり、最上級が落ちてその次の評価に転落する可能性も十分あった。
「ネイティブ」というのは嫌な言葉だ。あまり語学に詳しくない一般の方々にとって、ある言語のネイティブに対して、あたかも無条件にその言語を上手に操れるようなイメージがあるようだ。実際なところ、ネイティブだからといって、その語学レベルは必ず大学での勉強やビジネスのニーズに対応できるとは限らない。
一般的な定義によると、私は中国語ネイティブだが、子どもの頃から中国語が苦手だった。人の中国語を聞き取れず、発音と文法が難しく、中学生になっても先生に簡単な説明もできなかった記憶は今でも鮮明に覚えている。一方で、偶然ラジオの日本語講座から聞いた日本語に親しみを感じ、簡単にその場で正確に発音できて覚えた。
得意といえなくとも、大卒まで20年以上メインに使った言語だったが、かなり廃れてきて両親との日常会話においても支障が来ている。職場で翻訳系の仕事を頼まれた時にそれはもう大変だった。日本語力を可能な限り伸ばすため、私は過去10年間まともに中国語を使っていなかった。アイデンティティは言葉からとも言うし、中国人を辞めたかった自分は中国語を口にすることを忌避していた。つまり、私の中国語力は自分によって無理やり壊されたのだ。
中国語に依存しない生き方を貫いた私は中国人のコミュニティから離れられ、カルチャーレベルで中国人を辞めることができた。しかし、私は日本人になりきれなかった。どんなに頑張っても訛りをきれいに消せない。未だに日本人であれば誰でも知るのに、私が知らない表現によく出会う。これらだけだったら、私としてさほど気にしないが、一番の課題は私にとって普通の日本人として生きていくとかなり不利なハンディを持ってしまうところだ。
周りから受けた露骨な差別が少ない。年々減少傾向になり、帰化してからほとんどなくなった。それより、差別とまで言えない「区別」を感じる場面は依然として多い。具体的に、周り一部の人から「みかんではなく、可能であれば、本当の日本人と働きたい」という雰囲気を受け取る。ミスがあまり許されない気がする。例えば、本当の日本人だったら、5回までミスして良いが、私が2回もしたら首を切られる。上記日本語の問題もあり、同じ努力をしても、相手によって評価がディスカウントされる。
自分は本当に中国語を捨てる余裕があるだろうか。今更中華圏に戻りたい気がさらさらないけど、せめて選別したうえでうまいところだけでも拾ったほうが良いのではないかと、最近よく考える。そこで、私がたどり着いた結論は、外国語としての中国語なのだ。ネイティブレベルの中国語ではなく、あくまで外国人としての中国語力が求められる仕事にも関わることで一定の差別化を図る。実態より一番近いし、アイデンティティに傷つかずに現実と両立できるちょうど良い落としどころだ。
