令和7年外国人政策所感、ジャパニーズ・ドリームの終わり

来年1月の外国人政策の基本方針の取りまとめに向けて、高市内閣の方向性が出揃っている。技術的な詳細を省くが、在留資格の更新料金から、永住と帰化要件まであらゆる面で厳格化されていき、在日外国人への影響は甚大である。すでに帰化した自分にとって全く関係ない話のはずだが、すごく落胆する。

外国人が「アンウェルカム」というメッセージ

今回の外国人政策厳格化は外国人への締め付けに近く、一部の不良外国人がかけた迷惑ですべての在日外国人を罰するに等しい。SNSを眺める限り、在日台湾人を含めた在日外国人の間に動揺と困惑が広がっているようだ。政策によって手続き上の不便というより、自分たちが歓迎されていない事実のほうがダメージが大きいと推察する。

ただでさえ異国に身を置き、孤独や周りからの不理解と差別に耐えながら過ごしているわけだが、この一件で日本での生活を見切ってしまう人もたくさん出るだろう。元々見えてきた永住の道が遠ざかって不安に陥る人もいると思う。

人口問題は全く解決できていない

日本の少子高齢化問題はとくに解決されそうな目処がなく、日本人の若者は急にみんな積極的に結婚して3〜4人の子どもを作ろうとしているわけではない。経済、インフラと保険制度の現状維持という意味でも外国人に手伝ってもらうことは極めて重要だ。そんな背景から安倍元首相は外国人の受け入れを促進する政策を打ち出した。

外国人人口の増加によって必然的にある程度のトラブル(不良外国人の存在)が避けられないため、これも一種のコストだと私が思う。実務面で不良外国人への取り締まり強化、同化政策(日本語教育の奨励など)を敷けば十分対応できるのではないかと考える。そもそも長い目で見ればわずかなトラブルに過ぎないにも関わらず、安倍氏の後継者だと自称する高市首相の解決策は外国人の受け入れにブレーキをかける形になった。

日本は日本人の思うほど魅力的ではない

私の世代にとって日本はGDP世界2位で、先鋭的なポップカルチャーを有する大国だった。一方で、今の日本は過去の栄光に固執しがちで、イノベーションと付加価値をなかなか生み出せない国に成り下がった。文化面でもかなり優位性を失っている。日本人の若者は今や中国と韓国のソシャゲに夢中で、アニメも隣国に追い越されそうになっている。

日本国籍と日本人が誇りを持つ日本パスポートもさほど人気ない。根拠として、日本国籍の取得が「簡単」とされる旧制度において、毎年の帰化者はわずか9千人前後、多い年でも1万4千人程度しかおらず、外国人の母数に対して非常に少ない。移住を選んだ外国人のうち母国の国籍をキープしたほうが圧倒的に多いとのことだ。

外国人移住者への勘違い

一部の日本人の中で、外国人が日本に居ること自体は「優遇」だと捉える論調もある。ホストがゲストを招いて居てもらう意味では確かに外国人の立場が下だ。しかし、外国人にも選ぶ権利があり、数多くの国の中で日本を選んでわざわざ日本語まで勉強して自分の青春を捧げるわけだから、一種の取引でもある。要するに、契約社員や中途採用みたいなものだ。

人手不足に困るものの、大して給料も出せず、ネーミングバリューと職場環境も微妙なわりに採用基準を上げようとしているというのは今日本政府がやっていることではないだろうか。

「あの時・下」ピリオド

Mさんは決してかわいいとはいえず、7歳年下という若さがあるものの、20代から熟女好きな性癖が確立された私にさほど意味をなさない。しかし、その明るい性格や、どこかこの子を守ってあげたい雰囲気は魅力的だった。大晦日の夜から朝まで語り尽くしたあの日は確かに幸せだった。微笑む19歳だった彼女、お互いの体を貪り合う日々。青春を共有してくれた彼女に、私は責任を感じていた。

大阪から東京に帰還できたが、Mさんの私への態度はむしろ厳しくなっていった。言葉遣いや声の大きさ、歩く時の足音など、ちょっとした「間違い」でも喧嘩にタネになりかねなかった。何より対等な関係を築けていなかった。表面上、私が年上だったし、年収も高かったため、一見私が家を仕切っているように見えた。実態には、Mさんの意向が最優先だった。

Mさんは夫婦関係において言い合いや喧嘩があり得ないと信じ込んでいた。2人の妥協点を探るための必要な話し合いすら、受け入れようとしなかった。意見すると、彼女はすぐ「一緒に住めない」と言い出すので、毎回私が折れるしかなかった。そのため、喧嘩のたびに、形式上は必ず彼女が正しいという結果になっていた。

一例として、Mさんが勝手に退職した件において、最終的にそれに激怒した私の態度が問題にすり替えられた。さらに、2人の間に不愉快な出来事があると仲直りすることがなく、私の立場はますます悪くなっていった。要は減点方式だから、夫として正当な振る舞いをしただけで、関係が悪化してしまっていた。

どんな仕打ちを受けても私はMさんとの結婚を諦めたくなかった。「話し合おう」とスローガンみたいに訴えても、離婚騒ぎに疲弊した私は本音として早く終わりにしたかった。それでも2人の出会いと過去を念じて、自分にもMさんにももう一度チャンスを作ろうと、離婚届の不受理届を提出した。もはや破局を避けられない最終盤では、Mさん宛の国民保険の督促状を見て経済的に苦しんでいるかと思い、「今年ボーナスが多かったから」と適当に理由をつけて急遽10万円を振り込んだ。

離婚してから、私は繰り返し、自分の中で前の婚姻がなぜ破局に至ったのかを検証してきた。若い女性としてわがままを言うのは理解できるが、Mさんの場合は明らかに度が過ぎた。距離をおいて冷静に振り返った結果、MさんはASD、いわゆる発達障害だったのではないかと思う。空気を読めず、言葉をそのまま受け取る、他人の気持ちを想像できない、マルチタスクが苦手など、当てはまる特徴は複数思いつく。喧嘩するたびに、私が譲ってあげたため、彼女は本気で自分が悪くないと思ったかもしれない。

財閥系企業での就職、神社で出会ったお嫁さん、学生時代に目指したこの2つの目標はいずれも短命に終わった。相性を無視したイデオロギー優先の人生計画に、現実が無情にピリオドを打った。

大阪での勤務とMさんとの婚姻において、私が受けたダメージは大きい。言うまでもなく、これらの出来事自体はトラウマであるが、私のキャリアにも大きく影響した。大阪での1年は私のキャリアにとって全くもって無意味であり、また、詳細を綴れないが、Mさんとの離婚騒ぎに疲弊し、心身が弱まっていた自分に、攻撃を仕掛けてきた人が何人かいた。一時休職に追い込まれかけた。

「あの時・上」大阪、孤立とパワハラ

大阪で起きたことに関して、私は自分が100%正しかったと思っていない。社会人が経験浅かった自分は人間関係において失言したことあるし、業務においてミスが多かったのも事実だ。一方的に他人に責任を押し付けるつもりはないが、それでも当時の職場環境が酷かったと思う。また、具体的な理由が不明だが、当事者のS課長は私の退職後、降格されたらしい。A先輩が退職、部長も引退した。

S課長と部長は最初いい人そうに感じた。当時転勤手当をもらえなかった私に、部長から月1の出張という形で経費で東京に帰らせていただいた。この黙認はその後関係の悪化につれ、取り上げられたが、初め頃は優しかった。

S課長は同業他社から転職してきた人で、当時課長に昇進されたばかりだ。前職では経理部長職も経験されたようで、管理職として初心者ではなかったと思う。京都弁が面白かったし、京大卒というところにも勝手に親近感が湧いた。しかし、私が着任した頃すでにS課長の評判が悪く、平社員の間にしょっちゅう悪口を聞いた。上記のように自分への配慮もあって、とてもS課長は皆さんの言うような悪い人ではないと思ってむしろS課長の味方になろうと思っていた。

最初の豹変は今でも覚えている。会議でA先輩が何かを間違えて、その後S課長との雑談で私は「A先輩が間違ったことに気づいたが、会議であえて言わなかった」と軽く語った。その時、S課長は急にすごい剣幕で「なんでその場で言わないの?ムカつく。お前が居る意味ないじゃん」と私に怒鳴った。耳を疑うような反応で私はその場でどうすればいいかわからず、とりあえず「申し訳ありません」とひたすら謝っていた。

その日を境に、私は頻繁にパワハラを受けるようになった。具体的に、まずミスをしたら仕事が取り上げられてしまう。複雑なExcel作業でも、一回の説明でマスターすることを求められていた。要は減点方式だから、新卒2年目の自分は追いつけるわけもなく、仕事がどんどんなくなり、やがて郵便物の確認やホチキス留めといった庶務がメイン業務になった。それでもやむことなく文句をつけられ、部署宛の郵便物を開封しただけで皆さんの前で怒鳴られたことがある。あまりにも理不尽だったので、他部署の方から「なんだあの人?みかんさんは悪くないよ」というメッセージももらった。

仕事がないうえ、場所を問わずに頻繁に怒鳴られて会社での居心地が最悪だった。周りからパワハラで訴えたほうがよいという声もあったが、丸く収めようととりあえずS課長と相談してみた。長時間説教されたが、意見交換ができてある程度のガス抜きになっていた。相談している間にS課長の態度は比較的「普通」に戻ったが、普段のパワハラは改善する様子がなかった。「何をすれば認められるか」という問いに対して、S課長の答えは「自分で考えろ。仕事だけできても不十分だからね」だった。出口の見えない日々が続いた。

S課長だけではなく、先輩Aも大概なものだった。先輩Aの話は他の投稿でも触れたが、あの執拗に私の日本語力を攻撃した人だ。先輩Aは頭の回転が早い方ではなかったが、経験豊富で大事な業務を担当していた。S課長に期待されていたけど、残念ながら先輩A本人はS課長のことが大嫌いだった。正面でぶつかってから、先輩Aに徹底的に疎まれるようになり、変な話になるが、S課長と一緒に居たほうが落ち着くと感じた。当時の感触として、先輩Aは私に学歴か語学力か何かしらのコンプレックスを持っていたと思う。それゆえ、変にライバル視されてまともに付き合えなかった。

新卒社員の採用が決まり、1年間何もやらせてもらえなかった私よりその新卒の人が大事にされる未来は目に見えたため、転職に踏み切った。単身赴任解消のことを考慮せずにも、もうこの会社に居られないと判断した。先輩Aを含めて、同じ年度にすでに3人の退職者が出た経理部で、私の転職を聞いたS課長はショックを受けたようだ。私を責めることなく、むしろ優しくなって「内定が決まるまで誰にも言わないでよ、酷い目にあうから」とも助言した。大阪勤務のために用意した家電家具が台無しになった話に「今度転勤があったらとりあえず家具付きの物件にしよう」と言われ、S課長と久々に雑談できてなぜか悲しくなった。

S課長のパワハラに関して私は公にしたことはなかった。退職後、組合からヒアリングがあって「パワハラを受けたか?」と聞かれても否定した。ただし、経理部内への退職挨拶と別に、前部署、人事部と私を採用した役員に別途長文を送り、経理部を間接的に批判したことはある。

繰り返しになるが、当時の自分は非協力的な前妻に疲弊し、仕事に集中できなかったのは事実だ。そして、アメリカ採用だから、舞い上がって経理部に転勤した直後の態度が軽かったのもある。それでも徹底的に私を追い込んだ経理部は新人潰し以外の何物でもない。今振り返ってみれば、早い段階で部長や人事部に相談し、それから転職するかどうかを検討すべきだった。

ボストンまで行って懸命に勝ち取った内定はわずか2年半で終わった。アメリカ駐在や大企業での出世もなくなった。会社名が書かれているストラップ、社員証と社章は人事部と合意し、紛失扱いという形でもらって、今でも大事に保管している。

日本人ファースト体験

「日本が好きなら、なんで日本ではなく、アメリカを選んだの?」
「アメリカのパスポートを取れたらいつでも日本に行けるし」

私の問いに高校時代の知人はそう答えた。こんなずるい人には絶対なりたくないと誓った。高校から大学3年まで勉学を極め、体も鍛えていた。日本に外人デブが要らないと涙を流しながら、空腹を耐えてグラウンドを走る記憶は今でも覚えている。

母国の文化を捨て、比較的に白紙の状態で来日し、国公立の大学に通わせていただいたが、基本的に公的援助を受けずに(もっとも受けたくても受けられない)、母国からお金を持参してゼロから生活を築けてきた。安倍元総理の高度人材制度のもとで社会人1年で永住権を付与されて、在日外国人の優等生だと自負していた。

そうした努力をしても、必ずしも周囲から認められるわけではなかった。むしろ感覚的にずっとイバラの道を歩いているような気がした。日本人の友達ができないとか、コミュニティの輪に入れないとか、私自身の人間性も関わっているし、日本人同士でも難しい課題を一旦置いておき、一部「不思議」なエピソードを紹介したい。

カフェのバイト

大学院の時、一時期神保町のあるカフェでバイトしていた。関西人の店長がいい人そうだけど、職場自体はブラックだった。サービス残業を強要されるし、バイトリーダー格の女の子もあたりがきつくて日常的に怒鳴られていた。一番納得できなかったのは、職場環境だけではなく、バイトの中で私だけいつまで経ってもレジを触らせてもらえなかったところだった。一方で、採用3日目の新人でもレジ研修を受けていた。従業員のうち、私以外全員日本人だったことから、どう考えても自分だけ「区別」されていたと思う。

就職活動

大学院1年目の後半から本格的に就活を始めたが、情報が全く入ってこないうえ、誰も助けてくれない時期が後半まで続いていた。学部から来日した一部の人たちを除き、私を含めた留学生たちは例外なく苦戦を強いられていた。日本人の同級生は通常10社ないし20社程度の応募で就活を終えたに対し、私は100社程度エントリーしたかと思う。打率が異様に低く、日本へ留学という経験に全力で取り込んだにも関わらず、それがなぜか「ガクチカ」として評価されなかった。

就活がうまく行かなかったのは、自分自身の準備が甘かったり、自己分析が足りなかったりするところもあるから、一概に言えないが、出身を理由で明確に応募を断った会社は数社あった。とくに某社の3次面接で「中国人を採用しないように指示されたので」を告げられたことある。

大阪時代

大阪で勤務していた時、私に異様に厳しい先輩がいた。会議の時にしつこく皆さんに「みかんくんに日本語関連の仕事を一切やらせてはいけない」を提案していた。最初に聞いた時に耳を疑うほど驚いて反応に困っていた。2回目で言われた時に笑いながら「そう言われたら傷つきますよ」を言い返したが、「いえいえ、私も英語が得意じゃないので、同じです」と譲歩してくれなかった。別の大先輩から「業務に全部日本語が必要なんだけど」と援護してくれたおかげで一旦この話題を流した。

このままだとキャリアの支障になるので、この先輩とプライベートで相談してみた。外国人向けの日本語試験だけではなく、日本人向けの高認試験の国語でもいい成績を得ているため、日本語で業務をこなすに問題ない旨を伝えようとしたが、それ以来むしろ先輩のあたりがきつくなり、日本語だけではなく、英語関係のダメ出しも増えた。最終的に課長が仲介に入ったが、仲直りすることはなかった。

離婚

私は前妻に何度も「中国人と結婚したことを知られたくない」を言われたことあるし、彼女の苗字にしないと帰化の面接で変なことを言うと脅かされたこともある。離婚騒ぎの激化とともに、「国籍のために私と結婚したでしょ」のように国籍を引き合いに出す非難が続いた。自分の場合、日本人の配偶者としてより、独身で帰化したほうが手っ取り早いと説明してあげても理解してもらえなかった。その家族も執拗に国際結婚だったからうまくいかなかったように「日本人はこうなのだ」だと論点をずらしたがっていた。

前妻が帰化後新しい戸籍を作るための「帰化届」への署名を拒んだせいで、帰化の完了手続きがなかなか進まなかった。市役所と相談しようと電話したが、コールセンターの人が電話を切りそびれて、「市役所に聞いても別にできることないよね」「外国人は日本人と離婚したくないでしょ(笑)」私への悪口が丸聞こえてしまった。

予備自衛官の面接で、なぜ日本に貢献したいかを聞かれた時に「日本社会に優遇されたから」と答えたが、これから誤解にならないよう言い方を変えたほうがよいかもしれない。よそ者の自分は国公立大を通わせてもらい、表舞台の一員として認めてもらって居場所を得た意味では私は日本社会に優遇されたと言えるが、それに伴う努力と犠牲もあったから、別にダイレクトで何かの恩恵を受けて楽にできたわけではない。

子どもの進路は親と関係ない

昨今「中学受験」や中国からの教育移民などのテーマはよく耳にする。あたかも学歴で将来が約束されるように、子どもの受験戦争をヒートアップする親が後を絶たないのは、受験戦争で生き残った自分にとって滑稽極まりない光景だ。

具体的な話に入る前に、なぜ一部の親が子どもの進路に必要以上に干渉するのか、私には理解しがたい。老後生活は基本的に子どもに頼らない現代において、子どもの進路は親と全く関係ないと言える。こんな中で子どもの学歴や進路に過度に関心を持つ親なんて、それは完全にエゴだと思う。子どものことを自分のトロフィーとしてみているか、自分ができなかったことを実現してくれる道具として扱っているか、深層にあるモチベーションが人それぞれだろうが。

親としてなるべく子どもに良い将来を実現してあげるように、教育に力を入れること自体は否定しないし、むしろ賛同している。しかし、貴重な小学生時代に長時間座学させたうえ、高額な学費を払って私立中に入れるとは、一般論として果たしてどれぐらい意味があるのか。本人の希望がない場合、家族の総力を挙げてやるべきことだろうか。

なにせ中学受験を勝ち抜いても全然安泰ではないし、中高一貫校ではなかったら、当然高校受験もするかと思う。こんな次から次へと受験戦争にバトらせて大学受験まで持てる子どもは何割いるだろうか、少なくとも私の周りにすごく少なかった。優等生だったA子が大学受験を断念、名門高に入学したBくんが大学受験失敗みたいな話をよく聞いていた。相当目的意識がはっきりした子どもではないと、小学生という早い段階でプッシュされて完走できず、途中で脱落する可能性は十分ある。

目的は果たして何なのかによって話が違ってくるけど、良い大学に入れてあげたい場合、我々一般庶民において、やはり大学受験に力を入れることだ。就職の時にほとんど見られていない中学と高校より、大学こそ人生を左右する巨大なパラメータだと思う。大学受験に無駄がなく、期間も比較的に近い(数年か数ヶ月)ため、再現性が高い。絶対効果が出る投資なので、家族の総力を挙げてやる価値がある。

良い就職をさせてあげたい場合、学歴にだけ焦点を当てるとやはり的外れになるかと思う。前述の通り、確かに就職の際に大学の学歴が見られるが、根本的に内定を決めるのは本人の人としての魅力という一点に尽くせる。はっきりとした目的意識、ロジカルに会話する力、そして大事な場面に怯えず、堂々とした態度が好まれる。これらの素養はやはり受験勉強では到底身につけられず、部活やアルバイトなどの集団活動に真面目にコミットするうえ、練習する必要がある。

母国との関係改善、敵視から活用へ

最近憎んでいた母国との関係は急速に改善している。長年アイデンティティの不安定に苦しめられたが、日本国籍の取得によって問題の根源が取り除かれたような気がする。出身に対するコンプレックスが消え、感情的に母国と母国の文化を以前より受け入れやすくなった。

そもそも母国を拒否するようになったきっかけは、まず元々中国という国自体は決して良い国とは言えず、さまざまな問題がある。そして自分の生まれ育った家庭にも深刻な機能不全があった。両者が相乗し、アンフェアと高圧的な環境を強いられていた。私の日本移住は好きな国に住みたいという自己実現以外、そういった環境への反発、革命でもあった。

日本国籍の取得はこの革命において自分の完全勝利を意味する。決着がついた今となっては、敵視し続けるメリットもないから、ある意味でごく自然な帰結とも言えるかもしれない。

母国での権益

日本も中国も二重国籍を認めないため、帰化審査の最終段階において中国大使館で国籍の離脱手続きをした。少し遅れて反映されるが、中国国内の戸籍もその後強制的に抹消された。これによって私の中国国内における権益は一旦リセットされた。

両親が存命する限り、親族訪問の長期滞在ビザが降りる。こちらのビザを用いて現地で銀行口座を持てる。中國銀行東京支店と組み合わせて使えば資産の移動が簡単となる。おそらく必要がないが、現地で正社員として採用されれば、中国の永住権の取得も難しくない。

面白いところとして、中国に残された華人の直系親族(=両親)を守る法律があり、財産の安全、国外移動の自由と通信の自由が強調されている。

ルーツの活用

ここでの「ルーツ」とは、中国に限らず、香港や台湾を含めた中華圏全体に該当する。以前の投稿でも触れたが、業務において利益につながる中国と中国語関係の仕事を条件付きで解禁している。政治と経済では日本とのつながりが強い台湾はもちろん、中国のプレゼンスも日に日に無視できなくなっている。ただの翻訳要員ではなく、れっきとしたビジネスとしてこのルーツを活用できれば、あえて拒む理由ない。

これまで感情的な理由から中国語や中華圏に関わる仕事を自ら避けていたが、今ではそれらを戦略的資産として捉え直し、いわば、使えるカードをすべてテーブルに出すつもりだ。

また、皮肉なこととして、中国と台湾はお互いのことを国として見ていないため、中国人として台湾で働くことが難しかったが、この中華圏の軋轢から解放された今、むしろ日本人として台湾で就職することも可能になった。

目的は利益最大化

こういう投稿を書いて保守だった私がご都合主義の中国人に成り下がったかのように思われるかもしれない。過去に抱えていた過激思想は確かにフェードアウトしたが、基本的に日本の国益を考える姿勢に変わりないし、天皇陛下と神道を中心とした国のあり方という保守的な価値観も根強く大事にしている。今回の方向転換はあくまで無意味な意地を排するための一種の合理化に過ぎない。

外国語としての中国語

先月、台湾主催のTOCFL(華語文能力測験)を受け、無事に最上級に受かった。これによって、私があくまで「外国人」として中国語ができることを保証された。試験自体は決して簡単ではなかったし、文章自体が読めないし、選択肢4つの意味いずれも分からない出題もあった。また、馴染みのない台湾国語の発音と言葉遣いもあり、最上級が落ちてその次の評価に転落する可能性も十分あった。

「ネイティブ」というのは嫌な言葉だ。あまり語学に詳しくない一般の方々にとって、ある言語のネイティブに対して、あたかも無条件にその言語を上手に操れるようなイメージがあるようだ。実際なところ、ネイティブだからといって、その語学レベルは必ず大学での勉強やビジネスのニーズに対応できるとは限らない。

一般的な定義によると、私は中国語ネイティブだが、子どもの頃から中国語が苦手だった。人の中国語を聞き取れず、発音と文法が難しく、中学生になっても先生に簡単な説明もできなかった記憶は今でも鮮明に覚えている。一方で、偶然ラジオの日本語講座から聞いた日本語に親しみを感じ、簡単にその場で正確に発音できて覚えた。

得意といえなくとも、大卒まで20年以上メインに使った言語だったが、かなり廃れてきて両親との日常会話においても支障が来ている。職場で翻訳系の仕事を頼まれた時にそれはもう大変だった。日本語力を可能な限り伸ばすため、私は過去10年間まともに中国語を使っていなかった。アイデンティティは言葉からとも言うし、中国人を辞めたかった自分は中国語を口にすることを忌避していた。つまり、私の中国語力は自分によって無理やり壊されたのだ。

中国語に依存しない生き方を貫いた私は中国人のコミュニティから離れられ、カルチャーレベルで中国人を辞めることができた。しかし、私は日本人になりきれなかった。どんなに頑張っても訛りをきれいに消せない。未だに日本人であれば誰でも知るのに、私が知らない表現によく出会う。これらだけだったら、私としてさほど気にしないが、一番の課題は私にとって普通の日本人として生きていくとかなり不利なハンディを持ってしまうところだ。

周りから受けた露骨な差別が少ない。年々減少傾向になり、帰化してからほとんどなくなった。それより、差別とまで言えない「区別」を感じる場面は依然として多い。具体的に、周り一部の人から「みかんではなく、可能であれば、本当の日本人と働きたい」という雰囲気を受け取る。ミスがあまり許されない気がする。例えば、本当の日本人だったら、5回までミスして良いが、私が2回もしたら首を切られる。上記日本語の問題もあり、同じ努力をしても、相手によって評価がディスカウントされる。

自分は本当に中国語を捨てる余裕があるだろうか。今更中華圏に戻りたい気がさらさらないけど、せめて選別したうえでうまいところだけでも拾ったほうが良いのではないかと、最近よく考える。そこで、私がたどり着いた結論は、外国語としての中国語なのだ。ネイティブレベルの中国語ではなく、あくまで外国人としての中国語力が求められる仕事にも関わることで一定の差別化を図る。実態より一番近いし、アイデンティティに傷つかずに現実と両立できるちょうど良い落としどころだ。

「保存」、プロローグ

10代で聞いていた音楽が生涯にわたって影響を与えるという調査結果があるようだ。音楽に限らず、ゲーム、アニメや映画などの流行文化に関して私にとって心に刺さるコンテンツが2000年から2012年に集中しており、もちろんそれ以前とそれ以降も気に入るものがあるが、ピークは2008年あたりに迎えたような気がする。その年、私は高校に入学して、16歳になった。

社会人の生活はつまらすぎてしょうがない。希望に満ち溢れた10代、反逆と革命の20代を経験した私にとって、それらは感動の連続だった。アニメの主人公そのものだ。これ以上の物語を望むのが難しく、とてつもない空虚を味わう。もし自分の人生はアニメだったら、東大に合格した時点で幕が降り、せいぜい永住権を得た時点で後日談も終わるだろう。

欲しくて得られなかったもの、一部になろうとできなかった時代。親友を見送ってバス停のベンチに身を沈めたあの日私は青春と別れた。大学入試が終わったらまた日常を取り戻そうと束の間の光が差し込んだのは2015年の福岡だった。それから日常を取り戻すために8年あまりの時間もかかった。私がゴールにたどり着いた時に、青春の宴はすでに終わり、誰彼も次のステージに進んでいった。

せめての慰めを得ようと、現在と未来に希望を持てなくなった自分は過去に傾いた。カラフルな時代、私が欠席したザ・ゴールド。どんどん遠ざかっているあの時代を追体験するために私は活動を始めた。「保存」、「Preservation」という名を付け、シリーズ化をし、自分の活動を記録していきたい。実は先駆けて、英語ブログのほうはすでにガラケーに関して1作目(Keitai 1 – Peak Performance Heisei Japan, and One of the Reasons Why I Fell in Love with This Country in the First Place)を投稿した。仕事と家族に追われる日々で、昔ほど執筆時間を確保できなくなっているが、可能な範囲で自分の気持ちを文字として保存できればと思う。

夜明け

最近のプライベートと仕事は概ね順調だ。妻のサポートで仕事に集中できてこの半年間になんとか自分の信用を少しずつ取り戻しつつある。かなり割り切れる人もいるだろうけど、少なくとも私にとって安定的なプライベートがなければ、とてもまともに仕事を全うできない。

離婚直前に投稿した記事に触れた通り、私の前の結婚は失敗、いや、大失敗だった。経済的損失だけで200万円に上るし、私のキャリアも2回ほど大きく揺らされた。元々失われた時間が多かった我が人生はまた無意味な消耗をさせられてしまった。逆にここまでされてもパンクしなかったというのは、もはや力云々ではなく、単純に運が良かったとしか言いようがない。

現妻は有名私大卒で大企業に勤める非常に優秀な人である。こんな彼女だが、バツ1かつ海外出身の私を選んで献身的にサポートしてくれている。まだ入籍していない時、同じ過ちを繰り返さないように、前妻のことを包み隠さず打ち明けたし、ストレステストのつもりで敢えて手間をかけたりしていた。現妻に申し訳ないが、彼女のことをそれなりに試していた。それでも私たちは一度も喧嘩せず、スムーズに入籍した。時折彼女の実家にも泊まって一家団欒の時間を過ごしている。将来に対するビジョンも重なっているし、多分長く一緒に居られそうだ。

前妻はかなりひどい人物だった。ストレートに言わせてもらうとあまり頭が良くなかった。何より基本的な思いやりに欠け、人間として致命的な欠陥があった。単純に男女として相性が悪いという理由だけで説明がつかない言動が多かった。加えてそのご両親も大概だった。何があったらとりあえず自分の娘を守りたい、庇いたい気持ちもわからなくもないが、私からみれば親子揃って自己中に他ならなかった。私の推測だと、新卒1年目で会社を無断に辞めて、その数ヶ月後に離婚に踏み切った前妻はこれから基本的にニート一直線だと思う。きちんとした社会人はもう無理だし、私以上前妻を甘やかす男が到底他に居ないので、親がカバーできる範囲と期間で生きていくだろう。

離婚を経験した自分として、そこから得た教訓は自分を変えるというより、目を光らせていかに前妻みたいな人に近寄らず、彼らにエネルギーを奪われないにあるかと思う。前妻の場合、遅くても、会社を辞めた時点でもう追い出して良いと今更思った。自分自身の人生をマネージするだけで精一杯なのに、あんな意味もなく足を引っ張ってくる人間を相手にする余裕はない。

七夕事件、努力が全否定された時

努力すれば報われるというのは、よく聞くありがたい話だが、実際には当たり前ではない。過去も今も、私は何度も裏切りを経験している。肉親に、最愛だった人に、尊敬した上位者に。歳を取るにつれ早期にそういった人たちを区別する術が身についたが、今後も再び酷い目に遭わないとは限らない。

平成25年、西暦2013年、11年前に私の人生では「七夕事件」が起こった。それは、自分の価値観形成にとってわりと大きな節目となった。当時は日本留学の線が固まったが、躊躇も残っていた。大学入試で優れた成績を収めれば家族や周りの人たちに認められて優しくされたら日本留学を断念するかもしれないという「希望的観測」があった。もはや大学入試以外生きる意味がなかった風潮の中、それさえ乗り越えれば絶対的な立場を確保できると思っていた。

一浪した結果、一流大学に届ける成績ではないものの、点数が大幅に伸びたし、中堅大学に合格できた。日本のトップレベルの大学院にチャレンジするには十分な土台であった。一方、合格発表の日から我が家では不穏な空気が流れていた。具体的に、父親からの文句と嫌がらせが増えた。例えば、大学で使うパソコンを選ぶ際に、私は中堅モデルを希望したが、父親は反対し、一番安いモデルで十分だと主張した。

このパソコンを買う話に関してもう少し付け加えたい。地元に大学に受かれば親からゲーミングPCを受験生に買ってあげる風潮があった。実際別に大学ではなくても、短大や専門学校を適当に受験した知り合いももれなくゲーミングPCをもらえた。今後の留学を鑑みて、ゲーミングPCが不要だし、中堅モデルのノートパソコンで十分だと率先して格下げした経緯があった。そのため、パソコンの件に揉めたこと自体、ものすごく良くないサインだった。

周囲の期待を大幅に上回った結果を残した自分として、会話や説得を通じて毅然とした態度を見せて自分の希望を押し通した。その中で、運命の七夕の日を迎えた。メガネを掛けた状態で右目が拳を食らった。母親の料理がひっくり返され、服や床に飛び散った。なんでいい大学に受からなかったの、この役立たずを怒鳴られながら、私が思った。「いい成績」を取れば優しくされることを期待した自分は甘かった。約束を破ったり、文句を言ったりする気難しい親だと思っていたが、そんな大事な場面で逆ギレして殴ってくるのはとても想定できなかった。

それ以降、私は学校の寮に移り、実家に戻る度にあれこれの口実で殴られてすぐ寮に戻る繰り返しになっていた。大学生活の前半はかなり精神不安定で、ちょっとしたことですぐ攻撃的になったり、急に奇声を上げたりしていた。後半、各種資格試験を収め、日本留学の方向が固まって徐々に落ち着いていき、来日してようやく普通の生活を過ごせるようになった。

あれから11年が経ち、居場所を変え、国籍を変え、苗字も変えた。いつ実家と縁を切っても生きていける立場に居る。文句はあるものの、今では父親が私の意見に反論することはなくなった。