最近のこと

平成は終わりそう

なんと平成が本当に終わりつつあります。「私の昭和は遠くなっている」ある友人が言いました。でも、私にとっては、悲しいというよりむしろ楽しみにしています。新しい年号と共に、私も社会人になります。自分なりに新しい日本を作る気持ちがあります。

一期一会

最近、色々な人と別れました。私に色々教えてくれた神主のお姉さん、父みたいに私の面倒を見てくれたバイト先の店長も移動しまいました。あまり交流のなかった北京大学出身の先輩も、学業を諦めて北京に帰りました。「一期一会」を実感しています。

日本名拡散

切り札を使って、年末に市役所で通称名を登録しました。その後積極的に旧姓を粛清しています。母はそれを知り、最初ムカつきましたが、最近ようやく理解してくれました。新しく出会った人たちは、みんな日本名で呼んでくれるので、不思議な感じがあります。

東京移住延期

ブランク期を埋める為の研究生申請は、なかなか順調にいっていません。無理に東大と東工大にこだわらず、全国の国立大学に目を向けるようになりました。旧知の九州大は、最速で受け入れようと示したが、なお厳しい状況です。

國學院

最近、私の身の回りに、突然國學院出身の人たちが現れました。今まで趣味で神職資格を取ろうと考えてkて、推薦書がないと無理だと思ったら國學院の教務から「非正規生でもできるよ、ただ最速でも3年が必要になるが大丈夫?」と言われました。

神社でのバイト

前書き

少し意外ですが、お正月から神社でバイトすることになりました。仕事内容は、ほぼ臨時の巫女さんと同じで、お守りなどの縁起物を授与することです。もちろん、巫女装束はしません。

1ヶ月前に学校の掲示板で募集のお知らせを見たのです。性別制限を書いてなかったですが、多分臨時の巫女さんを募集だろうと思いました。やはり一応応募してみようと思って、応募しました。

場所は社務所の接客室で、壁で今上天皇陛下が総社に参った時の写真が飾ってあります。面接の相手は神職装束のお姉さんと私服のお婆さんでした。「実は女の子が欲しいですが」と予想通りに言われました。でも一応面接しました。面白いのは、お婆さんが私に「何県出身?」と聞いてきたことです。

結果、採用されました。その後、ある日、初穂料と実務の勉強のため、また社(やしろ)に行きました。例のお姉さんは拝殿で私を指導しました。お姉さんは若いのに、話し方が年配の人のようです。

仕事

1日と2日には、主に縁起物を授与することでした。電気マットがあって、その上に踏んでいたとしても、流石に寒かったでして、大変でした。人も大勢来ました。並んでいた列は拝殿から鳥居まで、何時間のうちに全然減らなかったです。

交代制で、皆さん2人組として「上」の拝殿と「下」の売り場に交代していました。

後は、節分準備作業として、豆くじを作り始まりました。2人が「上」に、そして2人が「下」、他の2人が豆くじを作るという流れでした。

最後の階段で、参拝者は段々来なくなったため、正月のお祝いも終わりつつあります。1人ずつ「上」と「下」に留守したほか、皆さんは一緒に豆くじを作るようになりました。

お姉さん

この神社が1つの家族で運営しています。お父さんが宮司で、三姉妹が神主です。私たちバイト役を担当したのは長女Tさんでした。Tさんは多分30代で、東京の國學院大學から卒業したのでした。とても優しい人でした。話やすくて、私たちは暇の時にいろいろ話しました。本当に人に大和撫子と思わせる人でした。且つ立派な神職で、すぐ惚れました。

もう何年ぶりでしょう、そんな話し合える人と出会って。途中から胸が苦しくなり、バイトが終わったらTお姉さんとあまり会えなくなる恐怖、流石にたまりません。もうこんな優しい声を聞こえないと思う時に泣きたくなる気持ちもあります。

終わり

最終日、1月6日。午後皆さんが力を合わせて早く豆くじを仕上げました。2時間早めに仕事を完成したため、少し片付けることをやりました。残った縁起物を運んだり、古神札を処分したりしました。

最後、皆さんはTさんから給料を貰って、一緒に記念写真を撮って解散しました。

雑感

年始からいきなり大変忙しくなりまして、そして確かに疲れていましたが、嬉しいと思います。これは私が初めて本当に直接に神社と関わっていたのです。ツイッターでも色んな神社関係者や神主たちと出会えましたが、実際あまり会えなく、感覚が断然違います。そして、もう一度私が本当に神道と日本(にっぽん)のことを愛していることを確かめました。

気が小さく、空気の読む私にとって、好感のあるTお姉さんと滅多に会えなくなったでしょう。本当に今でも少し寂しい感じがしますが、少なくとも、自分に少しヒントを与えました。

バイトとは言え、私が終始ボランティアの気持ちで働いてきたので、貰った給料をお年玉同様に扱っています。年始から神社からお年玉を貰えて、今年は凄い一年になりそうです。

日本のみかんは甘くない?

正月といえば、みかんです。来日以来、私は2回くらいみかんを食べたことがあります。日本の果物は高いので、あまり食べないです。因みに、食べ物について物価のイメージは
上海 野菜・果物<肉<魚鮮
日本(山陰) 魚鮮<肉<野菜・果物

高いとは言え、味は微妙です。全然甘くないです。最初は安いみかんを買ったので、多分そのせいだと思ったので、今回わざと高いみかんを買いました。その結果、甘さはほとんど同じでした。ということは、やはり中国のみかんは何か問題があるだろうと推測しています。例えば、砂糖を注入するとかです。因みに、今まで食べた中で、一番甘いみかんは台湾産のものです。

ゆく年くる年

今年ももうすぐ終わろうとしています。
皆さんのお陰さまで、終に来日しました。
来年のテーマは「東京」でしょう。
ネオン計画は立案以来9年目を迎えます。
ニッポンに来て幸せです。この幸せを永く続ける為に、
一生懸命頑張ります。

平成28年12月31日

通称登録済み、苗字改正に大きな躍進

念願の苗字改正はついに果たしました。正直に、あまり実感がなさそうです。

市役所での手続きが終わったら、すぐ隣のゆうちょ銀行に行って、口座の名義を変えました。公の書類を全部揃ったとしても、予想より遥かに面倒なことになって、1時間くらい掛かってやっと名義変更してくれました。

現時点、中国名を使っている場所は今在籍している学校、初めのアルバイト先に限っています。合法的に日本人の名前を名乗っても、よく日本出身と思われても(韓国のほうが多いけど)、私はなお著しい外国人です。少し複雑な談話をしたらすぐバレます。

ただ、これから自信を持って日本名を主張することはできるようになりました。

24歳のこの節目に、私は変わり続いています。

「君の名は」鑑賞雑感(ネタバレ無し)


12月2日、私は出雲で「君の名は」を観ました。その日は丁度この映画が中国で上映される日でした。結局渡しは日本に居るにも関わらず、中国人達より早めに観ることができなくて、少しがっかりしました。

出発前日まで、まだ躊躇していました。今更本当にわざわざ映画館で観る必要があるのか、もう少し待ってDVD・BDを借りるのはどうかと迷っていました。その結果、行くことにしました。山陰本線で日本海沿岸を沿って2時間くらい掛けて出雲へ行きました。景色が美しくて、まるで映画のようでした。ですが、如何に美しいと言っても2時間は少し飽きました。和装でしたかた、カメラの他、本とか全然持っていきませんでした。

終に11時30分に映画館に着きました。チケットを買った時、12時50分上映開始だと言われ、茫然としました。その後、なんとか暇を潰すと、漸く(ようやく)上映開始時間になりました。音楽が響き渡った瞬間に感動しました。相変わらず新海流の画面、そして、新海誠監督は成長している実感があります。その映画は、私の心の底にある何かを呼び起こしました。「日本は相変わらず僕が少年だった時に好きだった日本だわ」と心で呟きました。

「シンゴジラ」の情報量の膨大さと「この世界」の広島弁と違って、「君の名は」には飛弾弁が若干ありますが、9割以上のセリフが聞き取れました。私は24歳になったが、主人公達と上手く共感できました(自分の心はもしかしてまだ高校生のままかも(笑))。

物語は面白く、時に笑いを禁じえませんでした。思いがけなかったのは神道の要素も含まれていたことでした。展開は少し予想外だったので、ストーリーに夢中になっていました。終盤の時は本当に涙が出ました。RADWIMPSさんが作った音楽は本当に素晴らしすぎて、しかも画面とマッチして流れているので、更に感動しました。(タイトル:スパークル)

映画館から出て、すぐに共に新海誠ファンだった旧友に「『君の名は』を観た。泣いた。」というメッセージを送りました。この映画は私にとって作品本来以上の意味があります。この映画は私が今まで歩んできた人生を肯定しました。根本的なモノを再び私に思い出させました。私が日本にきた理由は、決してご都合とか出世したいのではなく、また中国が嫌いでどうしようもないわけでもありません。私が最も心が繊細だった時に日本に惚れ込みました。或いは運命のようなモノに導かれてきました。いずれにせよ、それは「気持ち」です。悩む必要はありません。

思い切ってこの映画を観にきて本当によかったです。映画館から出た私は、前より分かりました。低かったテンションが回復しました。本当に癒やされました。この状態が長く続くことを願っています。そして、私の人生を彩り、意味を与えてきた新海誠監督に一言を言いたいと思います。

「ありがとうございました。」

平成28年12月4日

東京移住を楽しみ

島根県から東京までの交通費を計算したら、いっそ試験前に東京に移住したほうがいいのではないかと思い、引っ越しを決めました。今住んでいる地方は確かに住みやすいと言えますが、段々デメリットも深刻になってきています。例えば、まず映画館がない為、毎回映画を観る為に旅行するしかありません。バイトも限られていて、作業系の他は接客業だけです。また、友達が作りにくく、皆さんの考えが違いすぎてあまり話が会いません。なにより、最近自分はよく「頭がいい」と言われ、皆さんが私と距離を置くようになり、更に孤独になっています。

東京に住み、東京の大学に入ったら生活がより一層正常化できると期待しています。それは、自然の豊かの代わりに、生活の便利さと文化生活の充実さがあるからです。東京では、自分の能力を最大限に活かせる時給の高いバイトもありそうです。志望の大学に入ったら、強い人と「友達になれる」人と会えるでしょう。

都心で5年単位を前提で部屋を探し、ちゃんと家を作りたいと思います。都心の家賃は少し高いですし、入試から奨学金を貰えるまでブランクがあるので、今は節約して貯金しています。この目標を決めた後、久しぶりにワクワクした気分になりました。

呉市初訪・「この世界の片隅に」感想(ネタバレ有り)


11月12日、私は着物で広島駅を経由して呉へ行ってきました。実は、来日した前からこの旅を図ってきました。この前「シンゴジラ」と「君の名は」を見逃して、悔しかったです。今回は上映当日に映画の舞台たる町でそれを観ると考えていました。

その映画は「この世界の片隅に」です。

随分前から少し原作を読みました。一般の戦争ジャンルの作品と違って、この作品はごく普通な少女すずさんに集中します。すずさんの人生を通じて、日常生活の立場でその歴史を表します。すずさんは美しくて正しい、まるで大和撫子のような存在です。戦況の悪化と共に、もしかしてすずさんも最悪な運命を迎えるかと心配して途中やめました。ですので、映画を観た前に結局を知りませんでした。

呉へ行く

バスで広島市に到着して、滅茶苦茶都会感を感じられました。路面電車もあり、面白かったです。終戦直前に、ここは原爆されて本当に簡単に信じられません。JRを利用して、呉市に向けました。

私は電車を乗る時に、車掌室の傍に立つことが好きです。車掌の運転を観察したり、電車が前に進む景色を見たりして心地よいです。沿線の風景も美しく、太平洋も見れます。恐らくこれは私が初めて太平洋を見たでしょう。沢山の写真を撮りました。

終に呉市に到着しました。大きな町ではないですが、賑やかな場所です。何より映画館でもあって、決して田舎ではなりません。立派な都市です。グーグル・マップのお陰で簡単に映画館「呉ポポロ」に着きました。映画上映よりまた時間があって、私が昼ご飯も食べていなかったため、近くにある「大黒屋」という店で噂の海軍カレーを食べました。カレーの後なんとコーヒーが付いていて、思いませんでした。

丁度開演時刻になって、早速に映画館に着きました。思ったより全然違って、映画を観にくる人たちに年配の方が結構居ました。そして着物を着ていたのは私だけで、とても目立ちました。

映画に関して

音楽は良かったと思います。最初のシーンからBGMのせいで泣きたくなっていました。

流石に終始広島弁で、この前の「シンゴジラ」より酷かったかもしれません。5割弱しか聞き取れなかった感じがします。でもなんだかぎりぎり観れる感じがしました。

この作品は特に戦争の酷さを強調せず、かえって軽く描写していると思います。配給がなくなって、すずさんはリラックスな雰囲気で色んな手段を使って代用品を作り出す。お兄さんが戦死したとしても、僅かのシーンで軽く表すだけでした。ユーモアも欠けません。劇場でよく笑い声を聞けました。

クライマックスはすずさんと同行している晴美ちゃんがアメリカが投下した爆弾に襲撃され、晴美ちゃんは死んでしまって、すずさんも大切な右手を失ってしまいました。このことから作品の軽さとユーモアが消えて、重くなりました。

いつも楽観的なすずさんは遂に鬱々とするようになりました。妹のすみさんの誘いにより気持ちが落ち続いていくすずさんは広島へ帰る思いが出ました。時は昭和20年の7月、例の原爆より結構近い時点でした。それを観ている私はとても心配でした。すずさんはもし本当にそこの所に実家へ帰ったら最悪なエンドを迎えるしかありませんから。幸い夫の周作さんに説得され、このまま呉市に生活し続きました。

すずさん1人の生活に集中しても、戦争末期と原爆の酷さは全く描かれていないわけではありません。

本当にかわいそうでした。なんで描き最好きのすずさんは右手を失わないといけないですか。アメリカはどうして平民を標的にして狙いましたのか。そもそもこの戦争は一体何の為にやっていましたか。

私にはなかなか理解できません。

帰り道

映画を観終わって、胸が塞がっている気がしました。泣きたくて、でもそのまま泣き出してもおかしいから気持ちを抑えました。

とても鬱な気分のまま、その日学校へ帰りました。実は、この投稿を書いている今でも、まだ完全に回復していません。

でも、「火垂るの墓」並みのバッドエンドではなくて本当にホッとしました。もしすずさんが本当にそのまま死んだら、その日私が帰ることができなくなるかもしれません。

日本語力はまだ駄目だ

外国人としての私にとって、日本語がうまいとよく言われます。確かに日本語能力試験(NJLPT)の最高級のN1でも準備しなく余裕に満点くらい取れます。ですが、来日から分かりました、私の日本語はまだまだだったことを。日常生活に最初からあまり言葉に困っていませんが、よく「日本の方ですか?」と疑われます。実際バイトする時にも、話がうまくできていない状況もけっこうあります。

やはり母語話者と比べると、年季が違います。

五十音図の勉強から遡っても、私は僅か8年間日本語を勉強してきました。そのうち、本気に勉強したのは3年だけです。その一方、普通の日本人の中学生は既に十数年、ほぼ日本語だけ喋ってきました。それに、私と違って、生活中と義務教育で幅広い分野に馴染んでいました。

日本で最も苦しい瞬間は外国人として扱われることです。毎週信仰している神社に通い、時には着物を着て散策しているのに、いざという時に日本文化に素人の外国人として扱われ、非常に心外だと思います。下手の場合、話相手の日本人が英語でも喋りそうになります。こういう時、「私たちにとって、日本語で話すのはもっとも効率的な手段なのに、なぜ突然英語をしたのだろう。本当に完全に英語で話したら、貴方の方が大丈夫か」と思って、がっかりします。

では、解決策は何でしょう?極めてシンプルです。日本に長年暮らし続き、時間に任せます。

この道しかありません。学校に勉強のことや生活のことを日本語で話したり、書いたりするのは余裕にできても、詳しくない分野、例えば居酒屋に働いて、時に困りました。例えば「さしちょこ」=刺し身を醤油で付け食べる為の小さい皿、これの意味がいままでさっぱり知りませんでした。

来日直前にあまり興奮しなくて良かった

明日、私は日本へ行きます。順調にいけば、これから数年間は、そんなに中国に戻りません。前回と同じ、数年間の悲願とも言えるにも関わらず、あまりワクワクしません。反って、来年の院試のことを心配しています。

昨日、RGFでのインターンが終わったばかりです。しんどかったですが、最後まで必要とされて嬉しかったです。皆さんと別れの挨拶をしたら、日本人の課長に「今度また来るよ」と言われました。

この数ヶ月間、私は半分意図的に、自分の日本に対するバブルの思いを崩壊させてきました。この間、少しだけ日本と日本人の裏面を知りました。それに何人かの日本人と知り合いましたが、残念なことになったこともあります。これから日本社会に於ける自分の立場も十分理解しています。それでも、私は日本を愛しています。

来日に対して興奮しなくて本当に良かったと思います。なぜなら、これは私の日本に対する感情が打ち上げ花火のようではない証拠だと思います。もし本当にテンション高くワクワクになってしまったら、後には必ず落ちるでしょう。