なかなか予想できなかったが、やはり私の渋谷時代は終わったと思う。住む場所に限らず、キャリアから家族まで、ライフスタイルは隅から隅まで大きく変わっている。人生の1つのターニングポイントを迎えていると言えよう。
この時期は私の最後の学生時代であり、受験勉強に限らずに幅広い活動が恵まれた青春の終電である。おおよそ4年間の日月にこれから人生の過ごし方が決定された。この4年間において全ての経験と出会いが大事であり、無駄にした時間や特段後悔になりうることはほとんどなかった。
この渋谷時代の終わり方について、いくつかのシナリオを想定していた。渋谷の大学に通うつれの卒業をきっかけに新しい時代を迎えるか、新入社員のグレードから普通社員に昇格するタイミングで青春とお別れを告げるかと考えていた。皮肉にも、その決定権は結局私になかった。
笹塚
複数の引越しを経験してから振り返ってみれば、笹塚のアパートは少しボロいが立地と設備がよくてとても住みやすかった。私は長い間に東京に興味がなく、九州を中心に活動しようとしたから、東京に関して渋谷以外は全くイメージが付かなかった。拠点を検討したとき、朦朧として渋谷区を限定にした。
最寄りの京王線を使って1駅で新宿に着く。ビックロやTOHOシネマズはほぼ家の近くにある感覚だった。コロナ以前定期的に映画館に通う自分として大変助かった。渋谷に行くために明大前で井の頭線に乗り換えるが、そんなに苦に思えない。駒場だったら、井の頭線に乗ってもいいし、自転車で行くことも少なくなかった。すでにつれに譲ったチャリに今も当時駒場の駐輪シールが貼っている。
笹塚周辺のコンビニで1年間弱働いていた。当時は4軒のコンビニに応募したが、一発でこのコンビニに決めた。青森出身の店長のやや珍しい訛りに親切さを覚えたし、「後ほど電話」ではなく、その場で採用を決めてくれた。仕事をこなせばとくにやり方を押し付けないことや、お客も他のバイトも地元の住民がほとんどだったから、滅多にトラブルがなくてマイペースの自分でも馴染んでいた。

神社研究会
当時の私は今より信仰心が深く、神道と神社に傾倒していた。神主になることも目指した。普通の人には理解しがたいかもしれないが、人は極端な環境に置かれて限界に追い込まれると現世より「上」の世界に救いを求めることになる。私はその状態で神社研究会に入った。
もちろん、神社研究会はあくまで神道のテーマを文化的、学術的に扱っている団体で、在籍していた時に宗教的な活動は一切なかった。どちらかというと、旅行サークルより近いではないかと思う。想定したビジョンと少し違うが、日本式サークル活動を体験・勉強するためにそれなりに活動していた。
学園祭(駒場祭・五月祭)、コミケ出展と合宿、いずれも私にとってアニメにしか存在しないはずのイベントはリアルでハイレベルで体験できた。非日本人かつ非駒場出身、加えて社交的でもない、異類だった私を容認し、面倒を見てくれたメンバーたちに今でも感謝と申し訳ない気持ちを持っている。あの時はもっと積極的に活動できれば、もっと自然に振る舞って馴染めば、と思ったことはなくもないが、やはり当時の自分にとうてい難しいことだと思う。

Y神社
Y神社との関わりは完全に運命の流れだった。Y神社があって、今の生活があると言ってもいい。私のつれ、大事な友達たちはいずれY神社の関係者だった。そのセンシティブな政治的属性に覆われる裏に、至って普通の神社だった。むしろ、一般の神社より世俗化されており、大企業のように感じた。
神社での勤務、特に徹夜に伴う大晦日はとくに別のアルバイトより楽にならないはずなのに、全然嫌にならない。むしろ、普段のストレスまで癒やされているような気がした。とにかく参拝者も、従業員も全員優しくて、疲れることがあってもイライラする人がいなかった。皆さんと一緒に食堂で駅伝を観ながら、おせちを食べる時間はとても懐かしい。
社会人になってタイミングよく友達と御霊祭に行く時、私は半分冗談で「オレの前世は絶対大陸で戦死した日本兵だ」と言った。現実的に考えると、ずっと独りぼっちだった自分はY神社という空間・集団に隔てなく受け入れられ、周りとの一体感が高まったのは安らぎを感じた理由かもしれない。

日本橋
社会人になり、通勤の便利さから、しぶしぶ笹塚から日本橋に引っ越した。絶対いつか笹塚に帰るのだと思いつつ、ほとんどすぐ都心ライフに「負けた」。住宅街の安いアパートから都心の高級マンションに一気に上がって多かれ少なかれ気分が浮いていた。これに関して私は素直に認める。東大に受かった直後に感じた「全能感」を超えて空虚ですら覚えた。
職場も徒歩圏内にあるため、私の活動範囲は急激に狭まった。ちゃんとしたスーパーがないが、特殊なマルエツ、成城石井と高島屋があるから、たいていのものが揃っていた。夜遊びが増えて、頻繁に女性を銀座の店に誘ったりしていた。こんな地に足がつかない生活は半年程度続いていた。
つれとの同棲生活が始まったごろから、私の浮いていたこころは徐々に静まってきた。コロナもあって夜遊びをやめて銀座にはもう滅多に行かない。その代わりに日本橋により馴染んだ。八重洲方面に何の店がだいたいどこにあるかを言えるようになったし、昔ながらの店にもよく顔を出すようになった。こんな平凡な日常を送る最中に急に大阪への辞令が出た。

終止符
悩みと苦しみもあったが、私の「渋谷時代」は楽しかった。人生のステップアップは人より若干遅れて、苦しんだ時期も長かったけど、「終電」とはいえ、このレベルの青春を楽しめてペイできていると思う。
運命の歯車はまた回り始めて、浮いていた体が地面に叩きつけられた。会社と家族といった絆ができて、これからの人生はどこに向かっているかもはや自分で決めることではなくなった。
