高認試験受験所感

生活基盤はすでに応募した時と比べてだいぶ違って、とても「趣味」の範囲から出られない高認試験を受けるところではなかった。負けず嫌いな自分に敵わず、渋々朝早く試験会場に向かって結果的によかったと思う。

いろいろ訳あって高校の学習を全うできなかった少年・少女たちを救済する意味合いの強い試験だから、出題の量も難易度も総じて甘かった。日常で使う日本語=国語や、大学まで触れていた数学、政治・経済系科目はもちろん、「科学と人間生活」も一般常識だけでなんとかなりそうな試験だった。その中で物理基礎だけが結構タフなイメージであって、1ヶ月前に教科書を一周しただけの自分は苦戦を強いられて、合格できないかもしれない。

試験の本質

少なからず試験の本質を悟ってきたような気がする。結論から言えば、試験は受験した時点の学力しか測れず、それ以上でもそれ以下でもない。文系出身だったが、私は理系が大好きだったし、物理の成績も一貫してよかった。上記の教科書の一周以外、高校以来物理に触れてなくて公式などがとっくにさっぱり忘れていた。昔の大学受験の時の成績とか、資格とかで自慢する人を結構見かけるが、今まで過去の栄光に囚われて前に進まないことにならないに謹んで自慢したい気持ちを控えてきた。今日は再び、別の角度でその無意味さを認識できた。

優れる義務教育

気になっていることとして、国語の試験で学生同士のディスカッション系が多くて就活のグループディスカッション(GD)を彷彿させられた。就活にGDがあったのは、元々義務教育からそういう内容を教わった(もしくは体験させられた)からではないかと勝手に推測している。つれから聞いた日本の高校の話を鑑みてその可能性が低くない。結局、以前不思議に思えていた日本人の凄さ、普遍的に強い生活力と集団活動力はあくまで学校で習得したとこで、特にその本人と両親の意識が高いために限らないみたい。

高認試験の意味

私にとって高認試験は大学に戻るに役に立つし、日本社会とのつながりを強める面でみても決して無駄ではないと思う。今更日本の義務教育を追体験することができないが、高認試験を通じてその一部のかけらを窺えた。外国人に向ける日本語能力試験を超えて、実際日本人と同様に国語の成績を持つことで、これからいざという時に説得力も増すでしょう。高認試験に興味を持つ外国出身者がいても、実際わざわざ受験までする人はそうそう居ないはずだから、私は日本社会の結構ディープなところまでたどり着いているような気がする。

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