テレビ台の最後のピース、Playstation Vita TV

Vitaは世間から一般的に負けハードとして扱われている。日本市場でかなり粘っていたが、欧米ではリリース初期から振るわずに沈んでいたらしい。Vita TVは本来携帯機のVitaのために開発したゲームをテレビで遊ぶためにリリースされた当時として異色のハードだ。

最近ふと「夜廻」シリーズをやりたくなり、Switch版もあるものの、Vita版と比べて高価であり、また妻にゲーム画面を見せたいのもあってVita TVを導入する機運が高かった。今後Vitaについても投稿する時にまた改めて語りたいが、ベッドで横になりながらゲームをやるのが好きな私にとってVitaは長い間に渡って主力ハードだった。それ故、今でも一定数のVitaゲームを保有している。「夜廻」をやる以外でもメリットある。

中古市場の状況(2025年3月現在)

前述の通り、Vita自体は人気なハードではなかったし、その延長としての当機種も販売当時からあまり流通されていなかったせいか、中古市場では本体のみで通常2万円程度で取引されている。新品定価の2倍とのことでプレミアムが付いている。

ポイントレビュー

  • Vita TVの本体は非常にコンパクトで、テレビ台のどこに置けば良いか少々悩むかもしれない。HORI製のスタンドを使えばもっとスマートに置けるらしいが、当該アクセサリーは入手困難になってしまった。
  • PS3のコントローラーとセットで販売されていたので、PS3のコントローラーが標準かと思うが、WikipediaによるとPS4のコントローラーも対応しているらしい。
  • 解像度は1080iまで対応しているが、Vita元々の解像度はわずか960×544だったので、基本的に画質が悪い。これも今回最大な期待ハズレだった。
  • WiFiの他、LAN端子も付いている大変真面目な仕様になっているため、安定的なネット通信を期待できる。
Vitaのテーマはそのまま使用可能

「保存」

ゲーム等の管理は特段ソニーのサーバーに依存せず、Vita本家同様のコンテンツ管理ソフトを持っていればローカルでバックアップすることができる優しい仕様だ。しかし、メモリーカードを含めてPSN IDと紐づける機能もあるため、ソニーの出方次第でダウンロードコンテンツをバックアップしても使えない可能性は残る。

Vitaと違って、Vita TVの本体をそのままパソコンと接続することはできない。データの交換はネットワークに頼るが、パソコンとのネット接続を何度も試みても失敗する。一方で、PS3との接続がスムーズで、PS3を経由すれば問題なくデータの交換ができる。

オンラインストアは2025年3月現在、継続している。サービスがいつ終了してもおかしくない状態なので、買いたいコンテンツを惜しまず購入したほうが良いと思う。

新規購入→購入コンテンツの再ダウンロード→機器認証という順でサービスが終了していくと思うので、当面数年間は問題なく楽しめると思う。

雑感

「夜廻」を中古購入してまもなくクリアしたが、次作の「深夜廻」もVitaにリリースされているが、私は多分PS4版を買う。前記にも少し触れたが、Vita TVの画質は思ったよりずっと悪い。PS4版もお手頃で入手できれば正直にいうと無理にVita版を買う必要ない。「夜廻」のためだけなら今更Vita TVを導入したことは賢明とは言えないが、既存のVitaライブラリをテレビで楽しめられるところから見れば悪くはない。また、PSPのゲームも手軽にテレビでできるようになったのも魅力的だ。

Vita TVのTopicsは今でも最後にアップデートされた情報を受信できる。リンクが切れて一抹の寂しさを覚える。早めにVita TVを購入すれば良かったと思うが、私が2016年半ばに来日した頃には、Vita TVはすでに販売終了していた。さらに、当時身分が不安定な苦学生だった私には、やはり購入は難しかった。

人の同窓会

先日、妻の同窓会に参加した。ホームカミングデーといえば、まず懐徳館の一般開放が思い浮かぶ。構内に散歩して、安田講堂を回って記念品をパクって帰るとか、実際前妻といっしょに経験した。

そういうふわっとした気持ちで妻の誘いに応じたが、妻の知り合いもいるかも知れないと思い、きちんと髪を整えておしゃれな服を着て向かった。これは正解だった。私大の同窓会を過小評価したものの、それなりに準備したから結果的にセーフだった。

会場は活気を帯びてすごく賑やかだった。ただ席に座り、偉い人の話を聞くだけで終わるのではなく、ビュッフェパーティー形式だった。出かける前にがっつりお昼を食べたうえ、ポテチも口にした自分は痛恨の極み。妻曰く、彼女もビュッフェがあることを知らなかったそうだ。それでもお昼から2〜3時間が経っていたから、若干不健康だが、とりあえずローストビーフ、カルパッチョとお寿司をひたすら食べていた。ちなみに、前日の夜もお祝いがあってすしざんまいですでにお寿司を食べたので、この思わぬビュッフェはもったいなかった。

私大の雰囲気は(私の中の)東大と違う。卒業から5年も経ち、来場した方は基本的に立派な社会人になれたのはほとんどもあり、社交的で生き生きとしている。テレビ局勤務の卒業生が司会を務め、紅白出場経験のある有名サークルによるパフォーマンスもあった。東大といえば、そういった芸能関係のお話はあまり聞かず、あっても政治評論家ぐらいだ。そして、一番大きな違いは、結束力にあるのではないか。同窓会の最後、応援団が締めを担当していた。吹奏演奏と応援エールの中で、みんな校歌を歌い始めた。私も流れに飲み込まれ、手を上げて校歌を歌った。ネームカードを書く時に冗談で「東大卒を書こうか」と言ったが、本当にそんなふざけた真似をしたらトラブル必至だったと思う。(実際「他大卒 家族」と書いた)

来場した方に子連れが多く、発言する際にも「妻が」とか「子どもが」とかをよく口にした。なんとなく自慢気味に聞こえる。一方で、「独身そうな人を探そう」だと婚活パーティー気分で来た人も一定数居たようだ。大学受験を勝ち抜き、次は就活で勝敗、さらに婚活も通し、子作りも手抜きせずにここまで来て、それは人にアピールしたがるよね。人間は結局こういうものだなと帰り道にさまざまな思いが巡った。

同窓会が終わり、あたりはすっかり暗くなっていた。余分なカロリーを消費することも兼ねて、妻の昔話を聞きながら、ゆっくりキャンパス内を散策していた。お互いそれなりに社会人をやって、学歴の虚しさを知っているから、普段はあまり大学の話をしなかったが、久々母校に戻った妻はキラキラに見えた。楽しくなかった、就活が辛かったと言いつつ、やはりこの大学に誇りを持っていると思う。

銀座生活のお休み

正月に妻を連れて3日をかけて東京を散策していた。予め方向を決め、この3日間にそれぞれ秋葉原、東京タワーと神保町を目指した。出来るだけ大通りを避け、裏道を周り、歩きながら都度有名な建物や地域の歴史を妻に紹介し、まるで自分の東京時代への総決算のようだ。私の銀座暮らしは年内に一段落がつき、生活拠点を千葉の田舎に移すのだ。

日本橋と銀座、いわゆる旧東京市京橋区に引っ越してきてからはや6年目に突入する。銀座を舞台とする東京女子図鑑を観た時点でまだ銀座が自分にとって無縁な場所だと、これからも笹塚のような庶民的な土地で過ごしていくかと思っていた。まさか、社会人デビューしたらすぐさま銀座の近くに引っ越したし、今では銀座のことを愛し、銀座の住民として自負しているなんてとても予想できなかった。

銀座といえば、ハイブランドのイメージが強いが、歴史と伝統を重んじる上品さ、高層ビルを絶対建てない矜持は私を魅了する。銀座でビルを建てる際に「銀座ルール」が課せられ、「銀座らしさ」を問われる。例えば、高さ56メートルを超えるビルは通常許されない。都心を少しずつ蝕む忌々しい高層タワー型施設を、銀座が拒否する。これは銀座が他の商業地域と一線を画した最大な特徴ではないだろうか。

銀座は富裕層だけの街ではない。少なくとも私にとって、銀座に住むに身の丈に合わないと思ったことない。参考として、麻布台ヒルズを見学した際に、私は赤裸々にクラスの違いを覚えた。あるいは渋谷富ヶ谷の住宅街、とても私みたいな人が居るべき場所ではないと思った。銀座ではそのような感覚があまり湧いてこない。

肉のハナマサと最近できたオーケーマートを加え、総合スーパーは2軒もあるし、ユニクロと無印は以前から出店している。基本的なお買い物に全く困らない。三越のデパ地下に4丁目のイタリアン、築地のすしざんまいも月数回であればさほど負担にならない。裏通りからしか入れない隠家的なあのとらやでも月1回程度であればプチ贅沢として受け入れられる。土日に歩行者天国も実施しており、世界中の人が集まってきて市民的な雰囲気が漂う。

徒歩圏内に各種デパート、レストランや専門店などが多数集積しており、区役所、警察署と図書館といった行政サービスも充実している。要は生活のすべてが徒歩圏内に完結できるし、日本のすべてがこの徒歩圏内に揃っていると思う。限りなく完璧な都会生活に近く、これ以上便利な場所はもはや存在しないではないかと確信している。笹塚に戻りたい発想がとくに捨てられ、一時にペアローンで近場の億ションを購入することさえ検討した。

これからの育児のために、やむを得ずにこの完璧な住所とお別れする。現に千葉勤務の妻に毎日片道1時間の通勤をさせてしまい、下り線が空いており、必ず座れるとはいえ、かなり負担を感じているようだ。また、せっかく妻の地元が近いのに、義父母の力を借りないのは勿体ないし、妻の親類が集まる地元のアドバンテージも魅力的だ。よそ者の自分にとって、田舎とはいえ、「地元」を作るのは簡単なことではない。

二拠点生活も考えたが、大阪時代の経験を鑑みてきっぱりやめておいた。二拠点生活とは、2つの家の維持費を払い続けることを意味する。家具と家電も2セットを揃えなければならない。大阪時代に私はまさになんでもかんでも2セットで揃えたが、大阪から退去したときに大金で揃った品物はもれなく二束三文になってしまった。一旦生活の中心を千葉に移したら、銀座に泊まれる日はどれぐらいになるだろうか。大阪の二の舞いに絶対なりたくない。

私の銀座開拓に関して、正直まだ浅い。行ってみたいお店が山程あるし、知らないお店もたくさんある。いつか胸を張って銀座に詳しいと言えるように、子どもたちを大学に送ってからまたポチポチ開拓し続けようと思うが、ライフワークになりそうだ。

亡霊②

空気は青みを帯びており、まるでドラマで早朝を表現する光景だった。私は車から降りて一軒家から出てきた元義弟に軽く挨拶した。部屋の中を覗いてみたら、そこにソファで横になっている元妻がいた。タオルケットをかけて生気がない。まるで人形のようだった。

翌日妻との会話で偶然この夢の光景を思い出し、猛烈な悲しみに襲われてしばらく黙り込んだ。別れた悲しみというより、自分は人の人生を壊したではないかという自責に陥っている。私と付き合わなかったらもっと普通な人生を送れたのでは、少なくともこれほど傷つかずに済んだはずだと思う。

ちょうどその時期にサイレントヒル2関連のコンテンツに多く触れていたし、それによる影響もあったかと思う。不治の病を患った妻のメアリーの看病に耐えられず、メアリーを殺したジェイムスに、精神不安定の妻に寄り添えず、離縁の決定打を打った自分を重ねてしまう。

元妻と別居してから1年以上経つが、その存在が記号のように頭から離れない。ほとんど毎日何らかの形で元妻のことを口にする。元妻が残した物には、迷わずゴミ箱に入れる物もあれば、こっそり倉庫にしまい込んだ物もある。選別の基準に一貫性なく、非常に中途半端な気持ちにいる。思い出の品だったらまだしも、ご本人にとってもゴミに等しい古びた洋服も一定数抱えており、私自身もうまく理由を説明できない。

猫や妻との幸せな時間を差し引いても、今の自分はこの有り様だ。順調に再婚できていなかったら、果たして私は日常を保てていただろうか。誤会されたくないところとして、私は別に元妻と復縁する気持ちは全くない。これに関して離婚の際に私がはっきりに元妻に告げたし、現に再婚もしており、復縁なんて絶対考えられない。しかしながら、私は元妻の安否を心配する。自殺を仄めかされたこともあったし、果たしてまだ生きているかどうかすら分からない。

外国語としての中国語

先月、台湾主催のTOCFL(華語文能力測験)を受け、無事に最上級に受かった。これによって、私があくまで「外国人」として中国語ができることを保証された。試験自体は決して簡単ではなかったし、文章自体が読めないし、選択肢4つの意味いずれも分からない出題もあった。また、馴染みのない台湾国語の発音と言葉遣いもあり、最上級が落ちてその次の評価に転落する可能性も十分あった。

「ネイティブ」というのは嫌な言葉だ。あまり語学に詳しくない一般の方々にとって、ある言語のネイティブに対して、あたかも無条件にその言語を上手に操れるようなイメージがあるようだ。実際なところ、ネイティブだからといって、その語学レベルは必ず大学での勉強やビジネスのニーズに対応できるとは限らない。

一般的な定義によると、私は中国語ネイティブだが、子どもの頃から中国語が苦手だった。人の中国語を聞き取れず、発音と文法が難しく、中学生になっても先生に簡単な説明もできなかった記憶は今でも鮮明に覚えている。一方で、偶然ラジオの日本語講座から聞いた日本語に親しみを感じ、簡単にその場で正確に発音できて覚えた。

得意といえなくとも、大卒まで20年以上メインに使った言語だったが、かなり廃れてきて両親との日常会話においても支障が来ている。職場で翻訳系の仕事を頼まれた時にそれはもう大変だった。日本語力を可能な限り伸ばすため、私は過去10年間まともに中国語を使っていなかった。アイデンティティは言葉からとも言うし、中国人を辞めたかった自分は中国語を口にすることを忌避していた。つまり、私の中国語力は自分によって無理やり壊されたのだ。

中国語に依存しない生き方を貫いた私は中国人のコミュニティから離れられ、カルチャーレベルで中国人を辞めることができた。しかし、私は日本人になりきれなかった。どんなに頑張っても訛りをきれいに消せない。未だに日本人であれば誰でも知るのに、私が知らない表現によく出会う。これらだけだったら、私としてさほど気にしないが、一番の課題は私にとって普通の日本人として生きていくとかなり不利なハンディを持ってしまうところだ。

周りから受けた露骨な差別が少ない。年々減少傾向になり、帰化してからほとんどなくなった。それより、差別とまで言えない「区別」を感じる場面は依然として多い。具体的に、周り一部の人から「みかんではなく、可能であれば、本当の日本人と働きたい」という雰囲気を受け取る。ミスがあまり許されない気がする。例えば、本当の日本人だったら、5回までミスして良いが、私が2回もしたら首を切られる。上記日本語の問題もあり、同じ努力をしても、相手によって評価がディスカウントされる。

自分は本当に中国語を捨てる余裕があるだろうか。今更中華圏に戻りたい気がさらさらないけど、せめて選別したうえでうまいところだけでも拾ったほうが良いのではないかと、最近よく考える。そこで、私がたどり着いた結論は、外国語としての中国語なのだ。ネイティブレベルの中国語ではなく、あくまで外国人としての中国語力が求められる仕事にも関わることで一定の差別化を図る。実態より一番近いし、アイデンティティに傷つかずに現実と両立できるちょうど良い落としどころだ。

中央自動車学校の閉校と想い

最近海外に行くことになり、MTが主流である現地事情を受け、ふと限定解除を考え、とりあえず値段を調べることにした。以前免許を取った中央自動車学校のホームページを検索してもなかなかヒットせず、「中央自動車学校 木場」というキーワードで検索して初めて中央自動車学校が2022年3月末に閉校したことを知った。

閉校自体は2021年11月あたりにアナウンスされたから、私が中央自動車学校で免許を取った半年後の出来事だった。それほど愛着がなかったはずだが、一抹の寂しさを覚えた。そもそも、在学中だった私はかなり態度が悪くて車校に通うことにめんどくさっていた。ペーパーテストが落ちて再受験したし、実技も再受験で辛うじて合格した。後になって自分も驚いたが、ある日タクシーで車校に通った際に、イライラさを抑えきれず、タクシー運転手に当たった記憶もいまだに忘れられない。

今も別の問題を抱えているが、当時の自分は内面的に様々な問題があった。20代後半で初めて免許を取得しようとする屈辱感、彼女に振られて婚活もうまく進まない焦り、初任給高い仕事に就いたものの放置されていた不安な日々。そんなくだらないプライドを捨てて、もっと素直に車校を楽しむべきだったと今になって思った。少なくとも、無駄に抵抗感を持っていたのはダメだったと思う。実際免許の受験もスムーズ行かず、余計に時間を費やしてしまった。

中央自動車学校の跡地に大規模賃貸マンションを建てるらしい。上京してから東京は常に変化している。思い出の場所はどんどん減り、その度に心が揺さぶられる。神保町の三省堂本店、1階の雑貨、勤務していた2階のカフェと地下1階のドイツ料理のお店が一気に消えた。いつの間にか閉店した茅場町の牛まい豚まい、韓国人おじさんの家庭的な接客がなぜか懐かしい。

「保存」、プロローグ

10代で聞いていた音楽が生涯にわたって影響を与えるという調査結果があるようだ。音楽に限らず、ゲーム、アニメや映画などの流行文化に関して私にとって心に刺さるコンテンツが2000年から2012年に集中しており、もちろんそれ以前とそれ以降も気に入るものがあるが、ピークは2008年あたりに迎えたような気がする。その年、私は高校に入学して、16歳になった。

社会人の生活はつまらすぎてしょうがない。希望に満ち溢れた10代、反逆と革命の20代を経験した私にとって、それらは感動の連続だった。アニメの主人公そのものだ。これ以上の物語を望むのが難しく、とてつもない空虚を味わう。もし自分の人生はアニメだったら、東大に合格した時点で幕が降り、せいぜい永住権を得た時点で後日談も終わるだろう。

欲しくて得られなかったもの、一部になろうとできなかった時代。親友を見送ってバス停のベンチに身を沈めたあの日私は青春と別れた。大学入試が終わったらまた日常を取り戻そうと束の間の光が差し込んだのは2015年の福岡だった。それから日常を取り戻すために8年あまりの時間もかかった。私がゴールにたどり着いた時に、青春の宴はすでに終わり、誰彼も次のステージに進んでいった。

せめての慰めを得ようと、現在と未来に希望を持てなくなった自分は過去に傾いた。カラフルな時代、私が欠席したザ・ゴールド。どんどん遠ざかっているあの時代を追体験するために私は活動を始めた。「保存」、「Preservation」という名を付け、シリーズ化をし、自分の活動を記録していきたい。実は先駆けて、英語ブログのほうはすでにガラケーに関して1作目(Keitai 1 – Peak Performance Heisei Japan, and One of the Reasons Why I Fell in Love with This Country in the First Place)を投稿した。仕事と家族に追われる日々で、昔ほど執筆時間を確保できなくなっているが、可能な範囲で自分の気持ちを文字として保存できればと思う。

夜明け

最近のプライベートと仕事は概ね順調だ。妻のサポートで仕事に集中できてこの半年間になんとか自分の信用を少しずつ取り戻しつつある。かなり割り切れる人もいるだろうけど、少なくとも私にとって安定的なプライベートがなければ、とてもまともに仕事を全うできない。

離婚直前に投稿した記事に触れた通り、私の前の結婚は失敗、いや、大失敗だった。経済的損失だけで200万円に上るし、私のキャリアも2回ほど大きく揺らされた。元々失われた時間が多かった我が人生はまた無意味な消耗をさせられてしまった。逆にここまでされてもパンクしなかったというのは、もはや力云々ではなく、単純に運が良かったとしか言いようがない。

現妻は有名私大卒で大企業に勤める非常に優秀な人である。こんな彼女だが、バツ1かつ海外出身の私を選んで献身的にサポートしてくれている。まだ入籍していない時、同じ過ちを繰り返さないように、前妻のことを包み隠さず打ち明けたし、ストレステストのつもりで敢えて手間をかけたりしていた。現妻に申し訳ないが、彼女のことをそれなりに試していた。それでも私たちは一度も喧嘩せず、スムーズに入籍した。時折彼女の実家にも泊まって一家団欒の時間を過ごしている。将来に対するビジョンも重なっているし、多分長く一緒に居られそうだ。

前妻はかなりひどい人物だった。ストレートに言わせてもらうとあまり頭が良くなかった。何より基本的な思いやりに欠け、人間として致命的な欠陥があった。単純に男女として相性が悪いという理由だけで説明がつかない言動が多かった。加えてそのご両親も大概だった。何があったらとりあえず自分の娘を守りたい、庇いたい気持ちもわからなくもないが、私からみれば親子揃って自己中に他ならなかった。私の推測だと、新卒1年目で会社を無断に辞めて、その数ヶ月後に離婚に踏み切った前妻はこれから基本的にニート一直線だと思う。きちんとした社会人はもう無理だし、私以上前妻を甘やかす男が到底他に居ないので、親がカバーできる範囲と期間で生きていくだろう。

離婚を経験した自分として、そこから得た教訓は自分を変えるというより、目を光らせていかに前妻みたいな人に近寄らず、彼らにエネルギーを奪われないにあるかと思う。前妻の場合、遅くても、会社を辞めた時点でもう追い出して良いと今更思った。自分自身の人生をマネージするだけで精一杯なのに、あんな意味もなく足を引っ張ってくる人間を相手にする余裕はない。

MacみたいなiPadではなく、MacBookを買え

たくさんの躊躇を乗り越えて私はMac miniからMacBook Airに乗り換えた。Mac miniの操作感をそのまま、iPadのような使い勝手も兼ね備えている。近年数少ない本当に買ってよかったと思えるお買い物だ。メインマシンをノートパソコンにしたのは学部時代のVAIO以来だった。日常に大きな影響を及ぼした出来事である。

性能に関してM1でも十分だが、一度買ったら長く使いたい気持ちがあって敢えて最新のM3モデルを選び、メモリーも16GBというミドルレンジにした。これは私のワークフローに16GBのメモリーが必要でなく、将来のOSアップデートを考慮した結論だ。これで向こう10年間使えるではないかと思う。

Apple Care+に関して悩んであちこち情報を漁って渋々加入することにした。バッテリーの健康度が80%を切ったら無料に交換してくれるポリシーが決め手だった。酷使して2年ごとに確実にバッテリーを交換して貰えば、かなり元が取れる打算だ。そもそもMシリーズ、アップルシリコン時代のMacBookは電源に繋いで使う必要ない。iPhoneやiPadみたいに充電して利用しても日常の操作に全く違和感がないだろう。

今回私はMacBookをiPadみたいに使っていこうと思う。Mac miniだけではなく、今までiPadが担ってきたロールの大半も果たしてもらいたい。おそらくもう新しいiPadを買わない。少なくともiPad Pro、ないしiPad Airのような上位モデルに手を出さない。今のMacBookならそのポテンシャルがあるし、一番お得な使い分けだ。

私は2018年式のiPad Proを持っている。ホームボタンを廃止した現行iPadデザインの初代に当たる。当時大学院でiPadでメモを取る慣習が流行り始め、このあまりにも画期的なモデルチェンジに魅了されたため、iPadを買い控えて周りより遅い時期にようやくiPadを購入した。それ以来ノートパソコンに代わって社会人3年目まで大活躍していた。期待していたMac OS的な進化が来ず、64GBの容量も厳しくなってきたため、最近主に動画視聴専用機として利用している。今後も利用できる範囲(サイドカーとか)で働いてもらう予定だ。

新社会人、社宅に引っ越した初日

最初からMacBookを買えばよかったじゃないを言われたが、そうでもない。MacBookは最初から今みたいに使いやすいわけではない。むしろ2015年から2020年までリリースされたバタフライキーボードを搭載した型式は黒歴史とも言えよう。バタフライキーボードというのは少し使ったらすぐ何らかの故障が起きてしまう欠陥デザインだ。加えてインテルのCPUを採用したMacBookはあくまでよく最適化されたPCに過ぎなず、他社のノートパソコンと比べてそこまで優位ではなかった。

ちなみに最近Windows界隈もX86テクスチャーからアップルシリコンみたいなARMベースに移行する動きがあるが、いくつかのレビューを視聴した結論として、とても期待できない。そもそもWindows自体が変な方向に進んでおり、どんどん使いにくくなっている。また、パソコンを取り扱う日本メーカーはすでにソニーから分離したVAIOとパナソニックしか残っていない。東大の標準端末はMac(ECCS2021)だ。

可能性の終わり、守りとしての攻め

キャリア的に私の可能性はすでに終わった。今の自分にとって、全く関係ないキャリアに切り替えることはほぼ不可能と断言できる。このような話を他の人に語るたびに、「まだ若いし、全然いけるよ」や「海外だと30代から全然違うキャリアを歩む人が多いよ」など、慰めのような言葉をかけられる。皆さんの言い分は特に間違っていない。30代、いや、40代でも全く新しい仕事を始めることは可能だし、全く珍しくもないと思う。しかし、その新しい畑でどれぐらい深堀りできるか、どんな成果を残せるかかなり微妙だ。

簡単な一例を示そう。私の前の上司はかなり優秀な方だった。聡明でハードワーカー、早慶クラスから新卒入社してわずか5年で課長になった。今海外に赴任しており、20代終盤の時点でかなりの花道を歩んでいる。それに対して、私は29歳にしてようやく中途入社し、3年目に入るが、4年間働いて係長になれるかどうかの調子だ。課長は仮に今後少々仕事のペースを落とし、上昇志向をそれほど持たなくても私より出世するだろう。つまり、キャリアに限って私より7年も早くスタートを切った課長は、私より多くの余裕を持ち、私より専門性を磨けられるし、成果を残す確率が高い。

よほどある分野において超人的な才能がない限り、新しい仕事に切り替えることというのはせっかく作った土台を諦め、ただでさえ限られている時間を投じて新たな土台に作り直すことだ。ペナルティ必至だし、確率的に活躍できる可能性が低い。少しでも希望があればできるだけ避けたい道だ。

学生の時に滅多に実感できなかったが、時間というリソースは本当に等しく誰にでも有限である。サンプルを大きく増やすと必ず正規分布に従うように、赤裸々残っている時間に何かができるか逆算で決まっており、工夫すればなんとかなるレベルの問題ではない。そうすると、残される唯一合理的な選択は、現状を壊して作り直すではなく、いかに無駄をなくし、与えられたものの価値を効率的に最大化するところなのだ。