国籍法第7条に巡り、担当者の法解釈で帰化申請が1年ほど遅れた話

本来ならば今のところはすでに日本国籍を取得したかもしれないが、担当者の法解釈で1年ほど遅れている。外国人が日本国籍を取得するに、いくつかの条件をクリアしなければならない。今回問題になったのは、その中の「住所用件」だ。

根拠法は国籍法第5条1「引き続き五年以上日本に住所を有すること。」である。

日本国民になろうとする外国人は連続的に日本で5年以上住民票を持たなければならない意味だ。ちなみに、留学生ビザの期間はフルにカウントされず、卒業後3年以上の就労歴が求められるという不文律がある。つまり学部から修士まで日本の大学に通ったとしても、4+2+3と9年も必要になる。さらに例外として、留学生ビザで日本に10年以上滞在すれば、就労歴が1年に緩和される。かなりややこしい運用だ。

以上はあくまで一般的な外国人に対する用件で、元日本人や日本人の子どもなど、日本人の「身内」には特例措置がある。「簡易帰化」と呼ばれる。例えば日本人の配偶者であれば、5年を待たずに、結婚した時点で3年以上日本に滞在したか、結婚してから3年が経って1年以上日本に滞在したことになる。

根拠法はこちらだ。国籍法第7条「日本国民の配偶者たる外国人で引き続き三年以上日本に住所又は居所を有し、かつ、現に日本に住所を有するものについては、法務大臣は、その者が第五条第一項第一号及び第二号の条件を備えないときでも、帰化を許可することができる。日本国民の配偶者たる外国人で婚姻の日から三年を経過し、かつ、引き続き一年以上日本に住所を有するものについても、同様とする。

去年の1月、当時横浜に住んでいた自分は横浜地方法務局に帰化の相談を申し込んだ。その時点ですでに社会人も2年ぐらいやって、連続的に日本に滞在する期間は余裕で3年を超えたし、日本人の配偶者として簡易帰化を申し込もうとした。結果、横浜の担当者に断られた。

横浜の担当者の言い分は、「留学ビザの期間はそもそもカウントしない」らしい。結果的に「就労ビザに切り替えた日から3年を待たなければならない」を言い渡された。そのように言われた瞬間、不審に思ったものの、相手が権威だから、そのまま鵜呑みにした。そして、当時はすでに永住資格を取得したものの、途上国出身というコンプレックスと立場を払拭できず、とても「帰化のために結婚した」を言われたくないため、この結果を受けてむしろホッとした。

先月、就労歴はとうとう3年を経とうとしているから、少々早めだが、東京法務局に帰化の相談を申し込んだ。まず相談して、予め資料を全部用意して、3年の用件を満たした4月以降に帰化申請をするという考えだったが、「3年以上日本に住んできたし、もう日本人と結婚しているからすぐ申請していいよ」とあっさり話が進んだ。

どうも横浜の担当者と東京の担当者は国籍法第7条への解釈が違うみたい。というよりも、「留学ビザ」の滞在期間の取り扱いが違うと言ったほうが正しいかもしれない。留学期間を完全に無視する横浜の担当者に対して、東京の担当者はちゃんと留学期間をカウントする。元々不文律だから、実務レベルで担当者・局によって若干違っても仕方がないが、どうも横浜の担当者の言い分が少しナンセンスだと思う。

もし留学期間は本当にカウントされなければ、留学生たちは日本に帰化するに日本で3年ではなく、5年以上を働くことになる。しかし、就労歴3年という用件はどちらも変わらない。就労歴3年は「この人は社会で本当に(1人で)食っていけるか」とのテスト期間だから、そもそも配偶者として来日した人は、往々にして正社員にならずとも、3年滞在すれば帰化できるし、そこで留学ビザを区別(差別)する意味がないはずだ。

帰化申請が遅れて正直にいうと実害がないに等しいが、20代のうちに日本人になれなかったのは残念だった。法令の勉強が甘かったし、違和感を覚えた時に声を高く言えなかったのも自分の責任だ。具体的な法令、事例を横浜の担当者に伝えられたら、結果が変わったかもしれない。

時間は金なり、金より貴し

小さい時、成績いい人、何かすごいことができた人の話を聞いた時、その人の頭がいいからできたかなと思っていた。しかし、今の自分に言わせると、学歴、資格と成績ぐらいのものは、できるかできないかという問題に関してその人の賢さというより、どれぐらい時間を費やしたのほうが結果を決めてしまうと考えている。一部真の天才、いわゆる「ギフテッド」の人を除けば、賢さは大して変わらない。同じスタートライン、同じ勉強法で取り組むと、費やした時間の違いが差を付ける。

社会人になってから、有効に支配できる時間がどんどん減っている。学生時代みたいな、その気になればなんでもできる万能感が消え去った。とくに結婚以来、家族のために使う時間ができたのに、家族に合わせて早めに寝なければならないため、可処分時間の総量が減った。睡眠時間を簡単に削れなくなった。学生時代より自由に使える時間は多く見積もっても2〜3割程度かと思う。賞を取った人がスピーチでまず家族に感謝する気持ちも分かってきた。それはそうだ。家族がサポートしてくれない限り、作業に没頭できず、賞を取るほどの大作ができない。

状況は絶望的ではない。仕事、家族と自分の時間は全部全うする余地はまだ残っている。ダイエットの摂取を減らして消費を増やす繰り返しと少し似ているが、いかに可処分時間を創出し、その時間を無駄にしないのはポイントだ。

出社で自由な時間を創出

可処分時間を創出するために、必然的に労働時間か、家族サービスのたの時間を減らすしか方法がない。ここでまず労働時間に着目して語ってみたい。私は自制心が弱い人なので、在宅勤務の時にどうも業務だけに集中できず、業務外のことをやってしまう。家事などの生産的活動はまだしも、ときにゆっくり映画を観てしまうこともある。結局仕事もやらなければんらないから、だらだらして意味のない長時間労働につながっている。しかも、このように自分のせいで長時間労働になった場合、やはり残業代を請求しづらい。

出社すれば、業務に集中することは可能になる。まず映画を観ることがないし、ついつい家事をやることもない。確かにしょっちゅうトイレかスターバックスに逃げ込むのだが、総じていうと効率的に業務内容にコミットできる。在宅勤務と比べて、明らかに出社のほうがメリハリをつけやすい。出社のメリットは決して効率がいいだけではない。このテーマに関して改めて別の記事にもう一度詳しく触れたい。

Twitterを規制

Twitter、ないしあらゆるSNSを規制することは時間の確保で避けて通れないテーマだ。いつでもどこでも、ついにTwitterを観てしまい、ただでさえ足りない時間をさらに無駄にしてしまう最大の原因となる。2011年初期からTwitterを利用してきた私にとって随分古いトピックになっている。事実、私はTwitterからの離脱を何度も試みた。無論、Twitterをやめる度に一時的な成功を納められても、いずれも失敗に終わった。

Twitterを通じて様々な人に出会い、学生時代の人間関係を維持する道具でもある。気になる人の近況とつぶやきをフォローしたり、世間のトレンドをアップデートしたりすることに価値があるが、必要以上に時間を溶かしてしまうことも事実だから、Twitterにメスを入れるしかない。昔の失敗経験と合わせて考えると、今更完全にTwitterをやめることはもはやできないと思う。安直にアカウントを削除して後ほど後悔するより、うまく利用時間を制限するのが正しい道かもしれない。

最初は、平日にiPhoneをやめてガラケーを使おうと考えていたが、確かにTwitterをブロックするに役に立つけど、LINEもできず、おサイフケータイも付いていない今どきのガラケーだけ使うと、それもそれで生活上に不便が増えて、本末転倒なような気がする。今取っている手段はシンプルだ、iPhoneからTwitterアプリをアンインストールすること。信じられないことに、それだけで私はもうだいぶTwitterを見なくなった。iPadやパソコンを使わない限り、そもそもTwitterを開こうと思わない。

時間は金より貴し

12月のある日、私は自宅からタクシーを拾って法務局に行った。法務局は駅から離れた九段南にあり、九段下駅から降りても、竹橋駅から降りても結構歩く。電車に乗る場合、打ち合わせの時間にちょうど間に合うかどうかのタイミングに、思い切ってタクシーを選んだ。タクシー代は1,800円かかったが、予定より10分前に法務局に到着できた。法務局の打ち合わせは予想より長引いて今度会社での用事に間に合わなくなった。再びタクシーを利用して、2,000円で会社まで走ってもらった。一日4千円弱のタクシー代を使ったが、お陰で大きな支障がなく2つの用件に間に合えて、むしろこれほどお得なものがないかとありがたく思った。

迷惑な母国語

小さい時にテレビであるシンガポールの映画を見たシーンは未だに覚えている。C国語先生に将来の夢を聞かれて、英語で答えようとする小学生の女の子は指摘されて不機嫌そうにC国語で「飲んだら白人になる薬を開発したい」と答えた。当時の自分はその女の子の姿勢に疑問を持ったし、とても受け入れられなかった。

それから約20年、私は日本に移住し、C国語を生活から完全にと言えるほど駆逐できた。日常生活において全く使わないし、履歴書にすら記入しない。周りにC国語があまり得意ではないと公言し、仕事でC国語が関わる案件もなるべく引き受けないようにしている。強いていえば、両親との交流は仕方なく、C国語で行っている。その小学生の女の子の発言が思い浮かぶたびに強く共感する。

言葉としてのC国語が嫌いだ。時制が曖昧で、使いにくいし、四声あって発音も難しい。なにより発音が汚くて、表現がゲスい。特に東北部の人は必要以上にR音を出すから、気持ち悪くて聞くたびに鳥肌が立つ。物を買いすぎる時に「手を切断しなきゃ」という表現があるらしくて、家族から初めて聞いた時に思わずに「なんでそういう風に言うの?やめて」と不快を覚えた。

今の生活に全く役に立たない言葉のために生まれてから20年間も勉強し続けていたこと自体は時間の無駄遣いだし、必死に勉強してきた日本語と英語も必然的にそれに影響されて訛ってしまう。少しでも訛りを削るためにまた膨大な時間と労力を費やすことになり、本来ならば、専門知識や趣味など、本当に有意義なことに使える時間は大幅に削られた。

日本に暮らす外国人として、C国語が分かることは1つの強みというよりむしろ不利に働く。C国語が分かると日本人にアピールすると、まず英語が分からないではないかと勘違いさせてしまう可能性が高くなる。そしてC国語が母国語である以上、日本語力も低く見積もられてしまう。ここで敢えてC国語を除外し、日本語と英語が分かることだけ伝えるとかえって出身を曖昧にできて先入観が減り、語学に関してより適正な第一印象を与えられると思う。

こんな母国語は要らない。できることならばC国パスポートと一緒にごみ箱に捨ててしまいたい。残念ながら国籍を変えられても一度身に付けた言葉を完全に忘れ去ることはできない。そうすると、日本語を極めてよりきれいな発音ができるようにしかない。日本語ないし英語のプレゼンスを向上させることを通じC国語によるダメージを最小限に抑える。

日本人の妻にはもちろんC国語を勉強してほしい気持ちは全くないし、子どもができたら絶対教えないように決めた。

逃げ切り、前倒しで帰化書類を集めようと思う

昨今の世界情勢に対して私は素直に緊張感を覚える。特に某国のリーダシップが非常に危ないフェーズに来ている。本来ならば私は某国の政治に無関心に居た。長い間に某国のニュースをスルーしてきたが、さすがに最近になると注目せざるを得なくなった。

何を心配しているかというと、彼らはすでに何をやってもおかしくない状態になったからだ。日本人の方にはあまり詳しくないかもしれないが、同一人物が3期以上トップの座を居座るのは非常にイレギュラーで、不吉な出来事だ。かつて、誰もが知るあのM氏が死ぬまで国の舵を取って、ボケてやりたい放題だった。そういう最悪の展開を防ぐために、某党がMAX2期というルールを決めたのだ。

タイワン侵攻ないし尖閣諸島奪取、架空戦記の領域だった話が現実に起こり得ないと言い切れなくなった。むしろこのタイミングでタイワン問題で無理する可能性が十分あると思う。当然ながら、彼らは少しでもタイワンに手を出したらすぐ今のロシア並みの制裁を受けるだろう。そうすると未だに某国国籍の私はどうなるだろうか。

そうだ。私は未だに日本国籍を持っておらず、某国籍の永住者だ。もちろん、永住者である以上、かつ日本人の配偶者がいるため、さすがに日本に居られなくなることはないと思うが、きっとかなり不利な立場に強いられてしまうだろう。某国がタイワンと戦争したら、帰化政策が変わらなくても、日◯郵便の中断とか、在日領事業務の縮小とか、雑多な書類を求める帰化申請が簡単にできなくなる。

帰化申請の受理日は来年の3月以降だが、前倒しして必要な書類を確保しようと思う。外国機関が発行した書類の有効期限は6ヶ月間もあるから、今から準備して実際11月末前後発行してもらって余裕で有効期限に間に合う。

出身を選べない。某国人として生まれてきてすごく嫌だ。若い時にまだ嫌味をこぼすが、この歳になるとシンプルに関わりたくない。一部の人によく勘違いされるが、私はああいう単純に某党が嫌いで某国の民主化を求める人と違って、文化レベルまで全面的にあの国を否定する。彼らと一線を画そうと頑張ってきた。端的にいうと、全うな人生くれた日本のために自衛隊に入って、戦死しても構わないが、これ以上あの国のせいで不利益を被るのが億劫だ!

近づいてきた30歳

気付いたら30歳の誕生日まで1ヶ月が切った。最後の20代をどのように過ごすかに関して特に気にしていないし、通常通りの生活を過ごしている。30歳を迎える心の準備はすでにできている。

若さを失うことに一番不安だったのは27歳前後だった。健診で初めて不具合が出てきて、老いる肉体を実感してしまってパニックに落ちいた。私にとって、本当にやりたいことをようやく始められる頃というのに、肉体のピークが過ぎてしまった事実をとても受け入れられなかった。

「自己中心的」な生き方

社会人になって間もない時の投稿にも触れたが、30代において「自己中心的」な生き方を貫いていきたい。これに関して2年以上経った今でも変わりなく、自己肯定感が確実に増している。妻や一部親しい友達をインナーサークルとして、親戚、友人とその他知り合いと人間関係を維持しつつ、割り切ってあまり意味ない人や事に手間を掛けないようにしている。

悔いのないキャリア

この歳になると、キャリアパスもほぼ決まってしまって、大きな変化はすでに望めない。幸い今の職場はとてもポテンシャルのあるステージだ。ずば抜けて日本一の環境ではないかもしれないが、れっきとした一流である。30代の約10年間、私はこのステージであらゆるリソースを活用して、限界までキャリアにコミットしていきたい。これは今後、30代の人生において最重要事項であり、生活の前提条件でもある。

自己実現に繋がる趣味

キャリアを全うすることができても、おそらく自己実現が叶わない。結局、今の仕事も自分の本当にやりたいことではないから、やりがいを感じられても、それだけでは物足りない。本当にやりたいことは複数があるが、時間と労力が極めて限られている。その中の1〜2個をピックアップして実現していきたい。まず一番やりたいことはやはり博士号の取得だ。キャリアアップについておそらく実現できても本当に10年ぐらいかかるかもしれない。

「この年齢で貯金100万円無いことの危機感」

先日、同年代の友達と少し貯金の話をした。タイトルはその友達の発言だ。友達はすごく立派で、長い間に失業したにも関わらず、正社員に復帰したらすぐ100万円も貯めた。素直に認めるが、もうすぐ30歳の身として未だに「自力」で100万円の貯金を作れたことがない。辛うじて20数万円を貯められたことがあるぐらいだった。

実際貯金自体は100万円以上を持っているし、金融資産もわずかながらある。資金源は主に2つある。まずは実家からの仕送りと支援だ。学費や生活費、新生活支度金などとして支給されて、その余った分を貯金している。これに関して原則、最後の最後まで崩さないようにしている。いわゆる「緊急予備資金」である。

もう1つは住宅ローンの残金だ。今年住宅ローンを組んで諸費用を差し引いてもそれなりの額が残っている。繰り上げ返済にはインパクトが小さく、何もせずに残しておいた。これもまた一種の「緊急予備資金」である。およそ住宅ローンの一年分に相当するから、万が一の時に1年間住宅ローンのことを心配しなくても済む。

日常生活において、私はさほど「節約」を意識していないが、決して浪費家でもない。極端的にお金を貯められていないのは本当に自分のせいだけではないと信じたい。今までの人生にお金を貯められそうなタイミングがなかった。事実、実家の支援に頼る学生の時期が非常に長くて、卒業したらすぐ妻と同棲して結婚、加えて単身赴任も強いられていた。社会人になってから2年半のうちに、自由自在の独身時期はわずか半年程度だった。

このようになると、22歳社会人デビューの教科書的事例と比べるともはや話にならないから、その辺りに関してすでに気にしていない。そもそも住宅ローンというのは自分に家賃を払っているようなもので、このままでも別段貯金しなくても「資産」が増える。とはいえ、貯金できていない現状に私も危機感を覚えている。

問題は将来の子育てだ。人間は本当に不思議なものだ。高校生の時に私は子供が嫌いで、ディンクスを目指していた。しかし25歳が過ぎると年々子育てのことを意識するようになり、最近とうとう具体的なイメージまで湧いてきた。子育てといえば、部屋の問題と教育の問題が一番頭に浮かんでくる。

今の部屋では全然子供を育てられない。第一、部屋の数が足りない。書斎があるものの、子供部屋にするほど広くない。子供を持つ前に、より広い物件に引っ越すことが確定している。都心で狭めのマンションで我慢するか、渋谷区のちょっと広めのマンションで妥協するか、それとも思い切って都心から離れてベッドタウンで豪邸を建てるか、全然決められないが、たくさんのお金が必要なのは変わらない。

教育の問題、言うまでもない。妻も私もそれなりに学歴を持っているから、子供の教育と学歴を気にしないはずもない。学歴を持っても大して何もできていない自分だが、もちろん学歴がすべてだと思わないが、学歴を夢への近道として捉えていて、充実な人生にエッセンシャルな存在だと思う。確かに偏差値の低い中高に居ても、名門大学に合格できた人もたくさんいる。私だって、いわゆるFラン出身だった。しかし、そういうケースに個人の努力、何より運に高度に左右されており、再現性ほとんどない。逆に言えば、良い中高に居たとしても必ず名門大学に進学できるに限らないが、最初から可能な限りにベストな環境を子供に用意するのは親としての義務だと思う。

お金がかかるのは部屋と教育だけではない。子供たちの生活固定費や海外旅行などの文化的行事など、たくさんのお金が必要だ。キャリアを頑張って生涯年収のボーダーを広げる他、ある程度の節約を実践したい。これは日常生活の所々をケチようとするわけではなく、不必要な出費を控えることだ。とくに耐久消費財の買い替えを見直すのだ。例えばまだまだ使い勝手が良ければスマホの機種を変更しない。そして、むやみに新たな趣味に投資せず、すでに初期投資が済んだ趣味を深めること。

自分探しの旅、疲弊と事故

車で西日本を一周するのは前から計画していたが、なかなか実行に移せなかかった。これから大阪の家を引き払って東京に帰ったら下手したらもう一生やらなくなるかもしれないと思って先週の金曜日の夜に旅を敢行した。

旅の計画はシンプルだ。大阪から北に向けて日本海側の町に向かい、そして山陰を経由して折り返し地点の北九州を目指す。最後は北九州から広島、岡山、いわゆる山陽を経由して大阪に戻るという構想だった。結果的に出雲で交通事故を起こし、早めに旅を切り上げて尾道に向かって、翌日大阪に戻った流れだった。途中余裕があったら、馴染んでいたいくつかのスポットを回ろうとした。

島根に住んでいた時に、東京までは飛行機で移動していたから、今回の旅で鳥取に進出して足跡を1つにつなげた。交通機関で旅行すれば、どうしても「ワープ」しているように思うが、自ら車を走ってみたことで国土の広さを実感できた。短い旅でも日本国土の「細長い」特徴を味わえた。

旅行の意味とは?

山陰の日本海を見えて久々ワクワクしたが、今回の旅は総じていえばつまらなかったし、疲れた。時間の無駄まで思わないが、もう2度とやりたくない。山陰以外、どこに行っても景色が同じで、駐車場の広いコンビニ、ガソリンスタンドと自動車販売店の繰り返しだった。鳥取のローソンに置いている商品は当然、東京のローソンと大差ない。強いていえば、中国地方に「ポプラ」というブランドのコンビニがあって、近年ローソンに侵食されても、ローソン店内で「ポプ弁」という形として生き残っている。

知り合いの中で旅行が好きな人がとても多い。中には日常的に広範囲に移動するマニアックな方もいる。学生時代の合宿からいろんな旅行を体験してきたが、残念ながら私には世間のいう旅行の喜びをよく理解できない。

旅行の意味はなんだろうか。私には2つの意味がある。まず、その土地に用がある場合、例えば受験や出張など、事務的な旅行が1つで、もう1つは「面白そうなまだ知らないことを体験する」ということだ。高度に同質化した日本で2番目の目的を求めるに年々ハードルを感じる。東京から出て別の場所に行ったところで日常感から解放されるに限らないし、むしろ首都圏内に高い宿に泊まり、妻や友と一緒に豪華な食事を楽しんだほうがよほど非日常感を得られる。

「面白そうなまだ知らないことを体験する」という好奇心主導の旅といえば、海外旅行のほうが私に向いているかもしれない。物理的な距離がどんなに近くても国境線1つを超えたら全く違う世界になる。その国の観光地ではなく、地元住民の生活を体験、勉強することこそ旅行の醍醐味だ。

交通事故

出雲で交通事故を起こしてしまった。助手席をよそ見した時に、減速中の前の車に思い切って追突した。当時の状態として、浜田方面を急ぎ、焦り気味で運転していた。さらに、体力も限界に達し、集中力がごみになっていた。追突の直前に実は別の車に追突しそうになっていた。幸い急ブレーキで回避できたものの、助手席の荷物が反動で飛んでしまい、中に入っているカメラの状況を気にしていた。

「ポン」と気づいたら前の車にくっついてしまった。そのあと不安ながら前の車を追ってすぐ隣の駐車場に入った。相手はとても優しそうな女性の方だった。事故に慣れているように見えて、彼女の指示で通報と個人情報の交換を行った。車のダメージは軽微で済んだ。こちらのレンタカーはナンバープレートが少し曲がった。相手車にわずかな凹みが見つかったが、見えにくい上、今回でできたかどうか判別がつかないほどだった。警察の現場調査を受けた後、それぞれその場から離れた。

運転は本当に疲れることだ。これに関して私はずっと予想できなかった。正直、最初に作った2日強で西日本を一周する計画は無謀すぎる。時間的に足りても、運転の疲れと休憩時間を全く考慮していない。自分の運転の適当さから考えれば、軽い物損事故に留まって人身事故を起こさなかったのは運がよかったに違いない。

一番やばかった運転は2日目の夜だった。夕方に猛烈な眠気に襲われて、山の中でどこかの待避所で車を止めてそのまま仮眠を取った。せいぜい10分程度を休憩するつもりだったが、目が覚めたらすでに周りがまっくらになった。頭がぼんやりしていたし、体も気持ち悪かった。そこで私が取った行動はもう少し休憩して落ち着かせたり、いっそのことエンジンを切って一晩寝たりするのではなく、なんとなくハンドブレーキを下ろして無理矢理運転を再開してしまった。

基本的に最初の10分ぐらいは、自分が何をしているか把握できていない状態だった。やばさだけ自覚できて、40キロのスピードしか出さなかった。厄介なのは、時々後ろに別の車が現れたりするところだった。低速でゆっくり運転したいのに、後ろの車が車間距離を詰めてとてもストレスだった。ちなみに、夜中の山の中では高速道路の感覚で走る人が多いらしい。ハイビームをつけても暗い道、体の悲鳴と後ろの車からのプレッシャー、免許を取得して以来一番きつい運転を体験した。

私はなぜ「大阪」を拒絶したのか

このタイトルをつけたら、まるでこれから大阪の嫌味を言うように見えるが、違う。私にとって大阪は単純に「家ではない場所」、「ゆかりのない所」に過ぎない。言い換えれば、無臭無味の存在であって、好きではなければ嫌いでもない。大阪と決別した今、感情を抑えてもう一度冷静に問題の根源を整理してみたい。

人の心は本当に不思議なものだ。島根の土地に初めて足を踏んだ時に、長く離れた故郷にようやく戻れたような気がした。最初から馴染んでいる。東京は生まれた場所とよく似ているから、つまらないと思うものの、暮らしやすい場所だと感じる。大阪だけ、長く住める気がしない。

「将来」のために「現在」を犠牲にすることはもうしたくない

「将来」、つまり出世のために今の生活を犠牲にすることはもうしたくない。私は高校時代からすでに何度もやってきたから、また「辛抱強く我慢しろ」を言われても、「じゃいつ生活を楽しむの」という話になってしまう。なるべく真っ当な学歴を積み、より良い勉強環境を得るために、私は地元の大都会を諦めて、あえて行きたくもない地方の公立大学を選んだ。バラ色の青春を引き換えに、地道に勉強とトレーニングに没頭できた。

あの時の犠牲があって今の可能性が広がったが、今なお犠牲をし続けたらどうなるか。順調でも大阪勤務を4、5年やらされる。大阪勤務が終わったころはそろそろ35歳になる。40歳までは若者だとして、残り半分の時間を捧げるわけだが、そこに何の意味があるのだろう。輝く中年生活のためとでも?一歩引いて、30台後半に子供を作るとして、40台以降の人生はすでに子供に予約されている。

出世の保証はどこにもない

学生時代の受験戦争と違って、会社員にとって頑張ったところで必ず報われるに限らない。東大卒だから出世コースが約束されるとか、あくまでドラマの設定であり、都市伝説のようなものである。作業自体をこなすよりも、周りの人間関係=信頼はもちろん、上司の意図への忖度、いわゆる「ゴマすり」も求められる。自分としていい仕事をするつもりでも、上司のニーズとミスマッチすれば失敗同然の扱いをされる。これに関して、私の邪推ではなく、上司にそのまま言われたことだ。

東京にいた私はそこそこ高い評価を受けた。昔の部署では大事にされていた。大阪に来てから私は始終東京並みのパフォーマンスを出せていない。客観的に観るとパフォーマンスが香ばしくない、かろうじて普通かもしれない。しかし、それは安定的な生活基盤はまだ形成されていないためであって、私主観的に仕事をサボりたいわけではない。それを全く考慮せずに、私の人事評価を下げた上司と部長に呆れた。メンタルがやられるから、人事評価だけ下げないでと部長にお願いしたが、全然効かなかった。一度人事評価が傷んだところで、社内昇進に全く響かないかもしれないし、響くかもしれない。人事部の偉い人にしか誰も分からない。

フルスケールでキャリアを追う妻

私の妻も就活の時から緻密なキャリアプランを立て、それを実行してきた。会える時間が減って寂しいけど、頑張っている彼女の姿が好きだし、応援したい。そんな彼女に仕事をやめて大阪についてもらうことはありえない話だ。無理にそうさせられても後々婚姻の破綻が見えてくる。それどころか、妻は私より激務のため、たまに大阪に来てもらうことも実現できていない。

今どき、いきなり年収ウン千万円のトップクラスエリートサラリーマンでもない限り、共働きしないと結構家計的に苦しくなる。事実、妻がバリバリに働いてくれたお陰で、今は都心に住んでも日常の支出に困らない。専業主婦前提の転勤制度は夫婦別姓より遥かに喫緊の課題ではないかと考える。

大阪拠点閉鎖決定、東京勤務を取り戻した

「長かった、辛かった」

10月から東京勤務が決定した瞬間、私は思わずそのようにつぶやいた。昨年の8月末、大阪転勤を言い渡された以来、私の生活は大きく変わった。一度東京を失って、横浜に移住したり、関西と関東間を頻繁に往復したりする落ち着かない生活を強いられてきた。

家計の重圧、夜行バスによる精神的・肉体的苦痛と家族との離れ離れという三重苦を味わい、私はすぐに諦めようとしなかった。上司との交渉や、マンション購入による家賃回避、前倒しして入籍など、いろんな対策を講じてみたが、継続可能な体制を構築することができなかった。

今回の東京勤務は通常の異動ではなく、私が禁じ手の切り札を切った結果だ。予想していたキャリア、せっかく手に入れた「レール」から自ら降りてしまった。いつか後悔するかもしれない、「あの時にもうちょっと我慢すれば…」と思ったりして。それでも、私は一歩踏み出して本当に過ごしたい人生に近付けたい。30歳の誕生日を控えて、このようなわがままはもう最後かもしれない。

東京生活を完全に取り戻したわけだが、馴染んだ日常がすでに元に戻らないし、一度東京を失った事実もなかなか忘れられないと思う。その痛みを肝に銘じてもっと慎重に生きていきたい。

年下の先輩、気にしない

職場には2つと1つ年下の先輩がそれぞれ1人居る。先輩と言っても決して1個上のものではなく、5個以上である。私は高校1年留年、高卒して1浪をし、加えて大学院に進学するために3年間がかかり、結果的に学部卒でそのまま就職する同年代の人より少なくとも5年の遅れを食らっている。少数精鋭の専門職だから、5年の遅れを背負っても年下の先輩にまだ2人しか出会っていない。

年下の先輩に関して、私は気にしない。出遅れの惜しみや危機感があるが、少なくとも先輩本人には嫉みを絶対持たない。だって、相手は自分より前に進んでいるから、自分より強いに決まっているではないか。同時に、あの時に留年さえしなければ、大学院さえ行かなければという気持ちも皆無だ。

なぜ?まず高校1年の時に留年しなかったらまず退学になってしまう。「もっとちゃんとすれば」とかも絶対無理、誰も私を助けてなかったから、思春期の自分に何ができるというの?浪人も同じ、高校の受験生活をフルコミットしてその有様だ、後悔することはない。浪人だろうが、そのまま来日できたとしても、日本語学校に入ってその1年はどの道潰されるのだ。では、大学院はどうかな。確かに島根に居た時の自分にとって、全力で就活をやってたら、中堅企業ぐらい受かったかもしれない。それで納得できたかというと、言い切れない。

今の状態はすでに最適解ということは自明だ。当たり前だったことは1つもない。しかし「当たり前ではない」という事実に関して、私はよく忘れてしまう。典型的な一例として、日本人が当たり前のようにできること、経験したこと、例えば義務教育時代の記憶などに私は羨んでいた。日本人並みに何かができない時に、もっと早く日本に来ればよかったと、両親を責めたり、深刻に悩んだりしていた。24歳の誕生日の直前に初めて来日した事実から目を逸らして。

私は人と比べることをやめた。いや、5年のハンディを抱えたらそこはもうどのように気になっても仕方ないだろう。人より出遅れだった事実を銘じて、キャリアへの工夫を通じてそのギャップを縮ませようとしたい。そして自分の生活、自分やりたいことだけに集中する。