結婚失敗、妥協、死守、そして撤退へ

いくらつらい仕打ちをされても、最近まで私は依然として妻の将来を案じ、離婚を避けようと妻とその家族に訴え、冷静さを保つよう呼びかけていた。気付けば自分の日常も崩れ始め、妻のことを心配するところではなくなった。そこまではまだ私たちの夫婦関係において、どこが問題なのか、どのように改善すればよくなるのかを詳しく指摘できていたが、次第にただこのつらい状態から脱却するしか何も考えられなくなった。

皮肉なのはどんなに頑張っても、どんなに正しいことをしようと、なぜか私だけが皆さんに責められる立場になっている。私のことを「自分の息子」だと呼んでくれたお義母さんは真っ先に私を批判した。妻の告げ口で私たちのことを知った自分の親族も揃って私を批判する。自分の両親でさえ、最初は私を批判し、妻を擁護していた。二人の家庭を支え、何度も何妻を許してきた私が、なぜか悪者にされ、生贄にされている。中国に居た時の経験を彷彿とさせられている。

私の結婚は失敗である。幸せを全く感じたことないわけでもないが、その期間は極めて短かった。妻の本心はどうであれ、彼女は自己中心的で、自分には甘く、私には厳しい。家で食事をする際、自分の食器しか用意しないほど、彼女は自己中心的だ。振り返ってみれば、最近まで離婚を全力で回避しようとしていた自分はもはや正気の沙汰ではない。この関係にすでに希望がなく、先に伸ばせば伸ばすほどダメージを受けることも気づかずに、いや、その事実から目を逸らしてきたんだ。

私のほうに全く落ち度がないかというと、そうでもない。妻に八つ当たりしたこともあるし、妻の携帯を投げて、つまり暴力を振るったことさえあった。しかし、私は本当に妻とその家族にこれほど酷い扱いをされなければならない人だと到底思えない。だって、妻のために私はやれることを全部したから。

アメリカまで行って必死で得た内定、一生に勤めたかった会社を辞めて東京に戻った。もちろん、それはすべて妻のためではないが、妻が大阪に移ることを固く拒んだことが、大きな要因となった。妻が私と相談せずに勝手に仕事をやめた時、私は激怒しても最終的に妻のことを許し、共働きを諦めた。平和な生活を望み、妻の要望に応じて妻の苗字を名乗ったが、一度も感謝されず、平和な生活もやってこなかった。

これ以上何をすれば良いか、再び自分を殺し、自分が全て悪いと妻に謝罪する以外に、復縁の道はないと思う。しかし、譲歩しても平和な日々がくる保証はどこにもないし、今度どんな理不尽な要求を言われるか分からない。焼け野原のような生活と精神的な限界に直面し、冷静になればなるほど、離婚すべきだという考えが強まる。

上海神社のハガキ3枚

以前上海という土地にまだ縁があった時に集めた上海神社が写っているハガキは3枚持っている。上海神社に関して当時の上海において1つのランドマークとして認識されていたそうだ。終戦直後に取り壊さ、稲宮康人さんの調査によると、御神体は上海総領事館に奉遷された。それ以降どうなったか不明、今でも総領事館に祀られていると思いたくても、数十年間国交が中断したことから考えにくい。

朝鮮半島と台湾と違って、上海は日本による直接統治がなかったが、たくさんの日本人住民はそこで人生を過ごし、立派な神社も建てられた。戦前の上海はもはや日本の一部ではないかと個人的に思う。その幻想的な上海が恋しい。

人生の主権回復

日本移住計画を作ってから15年も経ち、そのすべての項目が実現できた。自分で言ってしまうと、まるで熱血系アニメの主人公のような気分になっていた。しかし、アニメと違って、それっきりエンドロールが流れて物語が終わるわけではなく、私の人生はまだ続いている。

運命に抗って理不尽な人生に立ち向かって革命を起こし、完全なる勝利を収めた。これからの人生にそれ以上の成功をとても望めない。とくに30代に入り、自分の限界を知り、それを受け入れた結果、何か大きなことを目指す気力が湧かない。研究者でもあるまいし、何かの賞をとることはないだろう。本職のコンサルとしてはただ1つ1つ簡単な仕事を大量にこなしているだけで、別段誇れる要素はない。コンサルの頂点であるパートナーになれても、事業会社の役員とはわけが違う。

更生した元不良の話はみんな好きだが、元不良が頑張って更生したけれど、実質的にはあくまで一般人になっただけという話だと思う。自分の場合も似ている。どん底から上り詰めて、晴れて「普通の日本人」になっただけで、特段本当に何かすごいこと、公益をもたらしたことができたわけではない。見方を変えれば、一生懸命にスタートラインにようやく近づいたかのような状況で、その後の戦いに使うエネルギーがどれほど残っているかはかなり疑問だ。

話は戻るけど、かの国と縁を切り、愛する日本と繋がったということ自体はとても喜ばしい。これから自己紹介の時に遠慮なく、「私は日本人です」と言えますし、もっと正々堂々と公共セクターの案件に関われる。少なくとも形式上は公務員になる資格があるため、憧れの日銀や国家公務員への道も開かれた。もちろん、給与面を考慮すると今更官僚になりたいと思わないが。

パスポートに関して、私はそれを1つの大きなメリットとして捉えていない。社会人として海外に出られる機会は元々少ないから、いくらビザが不要な国が多いと言われても、「そうか」としか思わない。さらに私は帰化前から世界中の主要な国々のビザを持っていたので、特に困ることはなかった。

待ち遠しい国籍、名実ともに日本人になるということ

終わらない仕事とプライベート生活の空中分解による重圧の中で、私は一通の電話を受けた。法務局の担当者からの連絡だ。現状の確認に加え、出国を禁止するという指示である。それは事実上、私の帰化申請が許可されることを意味している。近いうちに私は法律的に一人の日本国民になる。そもそも、すでに「母国」のパスポートを使えないというのは、限りなく無国籍に近い状態だと思う。

来日してからもすでに7年が経っており、国籍を手に入れるのが待ち遠しい。日本人として生まれてこなかったことはあまりにも代償が大きく、これからもある程度それを永遠に背負わざるを得ないだろう。今回悲願の国籍を取得できれば、少なくとも自分にとって身分がすでに最善まで上り詰め、これ以上改善する余地がないことであり、いよいよ諦めがつく。

来日する前からカタコトではあったが、日常的に日本語を使ってきた。神様を祀り、食事も和食に切替えた。「母国」に居ながら、肉じゃがやお味噌汁など、独自に料理していた。来日してから日本語を極め、母国語を経由せずに日本語を上達させようとしただけではなく、日本語をベースにさらに他の言語を習得していた。言わせてもらえば、私はとっくに日本人になったし、今回の帰化はあくまで法的にそれを認めていただくだけで、一種の追認とも言えよう。

「日本に来るな」とか、「偽名(日本名)を名乗るな」とか、少ないものの、私は一部の日本人に真正面から拒絶されたことがある。交換留学生、正規留学生、就労から永住者まで、少しずつ自分の身分を固めてきた。振り返ってみれば感慨深い。心が折れなかったポイントはやはり自分の図々しさにあると思う。自分が日本人になりたい、自分が日本人であることは別段個々の日本人に認めてもらう必要がないというマインドセットはかなり初期に確立した。それはそうさ、日本語も日本文化も私が主体的に受け入れて身に付けたし、それらの延長であるアイデンティティーももちろん自分で決めるものだ。どんなに生粋な日本人であろうとも、関係のない他者から口を挟む余地がない。

国籍を手に入れて何かが変わるか。残念ながら、ほとんど変わらないと思う。強いていえば、現実の重圧に向かって戦っている自分にせめての慰めにはなる。法的な承認を得たら、自分の生活が安定したらそれを利用してさらに日本社会の中枢に根付き、同時に社会貢献を深めることを目指したい。

仕事もプライベートも、両方とも非常に厳しいフェーズに来ている。それでも私は日本のことが好きだ。むしろ日本で日本人として生きる道はいかに正しかったか再び検証された。

機内WiFiで仕事してた話

月曜日早々、現地拠点を訪ねてオフィスに入ろうとしたら普通に断られた。先日電話で交渉していた時に、「共用スペース」だったら利用可能を言われた時に、私は明るいフリーアドレスのオフィスをイメージしていた。現地に着いて、蓋を開けたらどうもその「共用スペース」はボロボロな休憩エリアだった。現地オフィスは固定席を採用しており、私に裾分けできる席はどこにもない。

この時点で私の海外散歩計画は破綻してしまった。頑張って休憩エリアで作業してみたが、目立つし、うるさくて会議がまずできない。「休憩エリアになんか変な外国人がいる」という噂が立つ前に、海外オフィスを断念し、次の会議を始まる前に急遽作業スペースの確保に走った。幸い1日2,000千円程度という比較的に安価なコアワーキングスペースを見つけられ、契約することができた。それで一旦目の前の仕事を凌いだ。

コアワーキングスペースを確保できたとはいえ、現地時間の9時から19時のみ使用可能という決まりがあり、日本時間に換算すると昼から出勤することになってしまうし、夜中まで作業することもできない。1日2日で我慢できても1週間続いたら危険すぎる。翌日、たまたま予定された会議が全部キャンセルされ、その場で踏み切って帰国することを決めた。会議がなくなったが、日本時間の夕方に提出しなければならない作業があり、わりとリスキーな決断だった。

荷造り、チェックアウト、空港への移動と出国手続き、搭乗口にたどり着いた時にすでに数時間をロスしてしまい、搭乗時間まで2時間弱しか残っていなかった。早速作業に着手してもなかなか進捗せず、搭乗まで終えそうになかった。そんな危機一髪なタイミングで、機内WiFiのことを思い浮かべた。カウンターのスタッフに機内WiFiがあることを確認できたら、一旦作業をやめ、必要な資料を予めハードディスクにダウンロードすることに専念した。そして搭乗のギリギリまで粘ってノートパソコンを充電しておいた。

事前チェックインの時でも申し込めるみたいけど、自分の場合は離陸してから座席の端末から機内WiFiを申し込んだ。5MB、100MB、300MBと無限という800円から7,000円まで4つのオプションがある。必要な資料を予め用意したので、機内WiFiの利用はメール送付に限るし、300MBも考えてみたけど、やはり今どきのデバイスには300MBが少なすぎて危険すぎる。思い切って無限のオプションに課金した。これは大正解だった。ダウンロードし忘れた資料もあったし、上司とのチャットでのディスカッションもあった。

外付けモニターがなく、マイスすら使うスペースのないエコノミークラスの狭い席で落ち着いて作業することができた。タッチパッドを使って案外精密な操作もできたし、通信速度が遅めだが、確実にインタネットに繋がっている安堵感、その時の私にはこの機内WiFiは7,000円以上の価値があった。成果物を上司に送り、さらにチャットでディスカッションできてついに仕事は一段落が付いた。私はノートパソコンを閉じてリュックに仕舞って窓の外を眺めた。

IPアドレスはカルフォルニアに割り当てられた

皇居ラン初体験

皇居ランニング、略して皇居ラン、すなわち皇居を中心にして回って走ること。以前から皇居ランを知っているし、皇居から徒歩距離に住んでいるにもかかわらず、なかなか体験しなかった、今日までに。

仕事と勉強に忙殺されている。私の人生にこれほど忙しくなることはそうそうなかった。忙しすぎて、仕事と勉強以外のことを全部諦めても、時間の流れもなお早い。気づいたらすでに午前1時、気づいていないうちに、8月も終わり、今年は残りわずかだった。それでも私は走りに出た。終わりのないデスクワークが続いている中、そのままだと糖尿病になるのではという大義名分もあるが、やはり忙しくても気分転換を求めたい。

自転車で日比谷に行き、駐輪場に預けたらスタート時点を目指した。普段皇居あたりにランナーをよく見かけるが、具体的にコースがどこにあるか把握していないので、最初は道に迷うのではないか心配していたが、走っている人がチラチラ居たから、それに混ぜ込んでスタート。最初の2KMが楽だった。さすが定番の皇居ラン、信号を待つ必要ないので、ノンストップで走れる。と言っても竹橋あたりにリタイアしてしまった。

やはりランニングがきつい。普段歩きですらしない自分は昔ほどの体力を持っていない。最初から完走できると思っていなかったが、リタイアした瞬間にかすかに挫折感を覚えた。折り返して戻っても、そのままに進んでも距離的にあまり変わらないので、そのままウォーキングしていた。夜中でも、お巡りさんたちは定点的に皇居を警備している。お巡りさんの側を通り過ぎる時になぜか気まずい気がした。こちらから挨拶すべきか、もしかして相手に挨拶されるかもしれないと勝手に思って、イヤホンをつけたけど、必死に気を遣った。

霞が関を通り、日比谷に戻り、無事に5KMを「完歩」できて自転車を回収して家に帰った。すごく疲れたが、なぜか体が逆に軽くなったようなきがする。そして、絶対時間をたくさん無駄遣いしたかと思ったが、むしろ時間の流れが遅くなって久しぶりにゆっくりできた。途中から膝がめちゃくちゃ痛くなったけれど、今度また走ろうと思う。

君たちはどう生きるか (ジブリ)感想(ネタバレあり)

映画館から帰ってきてから、自分なりにネットで考察や口コミを調べてみて自分の認識をダブルチェックした。やはり、この作品はもう完全に宮崎駿監督のやりたい放題であり、観客の立場をまるで考慮していないように見える。メッセージ性が完全にないわけではないけど、物語自体が成り立っていないと思う。内輪ネタが多く、大変僭越ながら、本ブログの投稿みたいな自分の思いつきを至高な映像美で装飾し、有名人声優を付けて世に送り付けたように思う。

なぜ戦時中なのか、なぜ鳥なのか、なぜ積み木なのか、本作の世界観は難解というよりまるでランダム。なぜ戦時中なのかという問いについて、おそらく宮崎駿監督自身の成り立ちから引っ張ってきたと思う。監督自身は戦時中にまだ幼児だったが、父親が軍用機関連の工場を経営している点は主人公一家の設定と似ている。冒頭に戦争に触れながら、全編を通して限定的であって、プロットデバイスに過ぎない。戦時中という設定を変えても本作にほとんど影響がないと思う。

物語を要約するとかなりシンプルだ。主人公一家は戦時中に疎開先に引っ越し、悪そうな喋る鳥(アオサギ)に惑わされ、人を食べる喋るインコが溢れている異世界に入り、子供の時に母親と一緒に失踪した今の母親(継母)を連れて現実世界に帰還するというファンタジックなお話。このようにまとめて見れば筋が通るように見えるが、実際一貫にしておらず、物語の進み方がランダムで、キャラクターの行動と動機に不可解が多い。

至高な映像美という表現を使ったが、それをもって楽しめるとは言っていない。作中のアオサギはポストのバージョンよりずっと気持ち悪い。普通のアオサギ形態も描かれているが、喋り始めるとくちばしに人間の歯が生えてきてすごく気持ち悪かった。異世界の住人のインコたちは一見可愛らしいけど、本気に主人公を殺しにかかってくるし、実際人を解体して調理して食べてることを思わせるシーンもあり、倒錯的で気持ち悪い。

また、本作のヒロインにあたる少女が子供時代の主人公の母親という設定もまた少し気持ち悪い。成人としてどうしてもピュアに仲間とか親子とかの関係だけ捉えることができず、フロイトのエディプスコンプレックス、いわゆるマザコンを連想してしまう。それ自体は健全だと思うし、そういう感情を持っている、もしくは持っていた人は大勢いる。しかし、気まずくて少し気持ち悪い。

最後はメッセージ性に関して少し自分の理解を語ってみたい。まず簡単に異世界(「下の世界」)の構成を説明する。大雑把に管理者(神様的な)が住む領域、主な住人インコの国、その他という3つに分けることができる。その管理者は主人公の行方不明だった大伯父であり、毎日積み木を使って異世界のバランスを維持している。インコ大王は管理者に尊重しながらも、今以上の自分たちの権益を広げようとしている。管理者は自分の仕事を主人公に継がせようとしても拒否された。一方それを盗み聞きしたインコ大王はなぜか急に怒り出して管理者の積み木を真っ二つに切ってしまう。それによって異世界はあっさり崩壊した。

宮崎駿監督は自分の後継者をうまく育てられなかった虚しさを伝えているか。もしくは、アニメ業界全体として、アニメーターに高い成果を求めるものの、現状の低賃金の体制を強いることを語っているのか。あるいは、日本全体として警鐘を鳴らしているのか。職人に後継者が居ない話はもちろんよく耳にしているが、何より、今の世代の日本人は子供を作りたがらないから、社会の後継者が足りないのだ。昨今自分だけさえよければ、次の世代の形成を他人に押し付ける人がすごく多くて、まさに作中のインコたちの姿勢と重なる。

本作の最大の問題点は、作品内容を伏せて宣伝しない戦略にあると思う。冒頭に戦争への繊細な描写はさらに観客をミスリードした。事実、私は冒頭の空襲シーンを見て涙が流れたし、風立ちぬみたいな戦争をテーマにしている映画かと思った。その故、疎開先から思い切ってファンタジーに切り替えた時に、気持ちの整理がつかない自分はすごく抵抗感を覚えた。ファンタジーとしても前述の通り、物語自体面白くないうえ、そもそも成り立っていない。物語のためにシーンを作ったわけではなく、そのシーンを作りたいから無理に物語を書いたとしか思えない。

この映画はもし宮崎駿監督ではなく、もっと普通なクリエイターとか、端的に言えば無名監督が作っていたら絶対批判を浴びたと思う。まあ、宮崎駿監督ほどの人物でもなければ、そもそも企画としてどこでも通らないだろう。

上海游記

上海はどのような町なのかを聞かれた時、私はいつも「劣化版の東京」を答えてきた。全世界から資金や人々が集まる町で、コンビニと電車ベースのライフスタイルが特徴的なところでは、少なくとも東京と似ていると言えよう。しかし、東京を家にしてから数年が経ち、久しぶりに上海に行った私は上海という町を再認識し、1つの事実を確認できた。いくら戦前に東洋のパリと呼ばれていた上海でも、今では東京と同じ土俵にない。わが東京こそ、名実ともに東アジアの中心である。

チープな上海

上海に対して基本的にチープな印象が強い。戦前からあった建築や施設、日系デパートなどを除き、例えばお店の看板のデザイン、ないしそのネーミングにセンスを感じられない。場合によって、チープという表現よりも、下品な言葉が平気で使われていることもある。果物屋に安くて美味しそうな各種フルーツが並べられているけど、少し失礼だが、店員さんが食べ残した弁当も適当にレジのすぐとなりに放置されて不快感を覚えた。現地系の商業施設の出入口になぜかプラスチック製のカーテンらしきものが掛かっており、潔癖症を持つ妻と同行する際に大変だった。度々、私は先にカーテンをくぐり抜け、手でカーテンを抑えて妻を通すようにしていた。

高価な上海

上海の物価が高い。不動産の相場はまず東京より激しくて、現地の若者は通常自力でマンションを買うことができない。生活においても高く感じる時が多い。もちろん、それはあくまで上海に東京並みの生活を求める場合だけの話である。反日色が強い国の割に、日本の商品を取り扱っている店は思ったよりずっと普通に見かける。日本からの直輸入があれば、現地生産の同等品もある。値段について現地の収入水準に関係なく、為替レート換算で東京より高い。今回旅に出る直前まで忙しかったため、諸々準備不足のせいで、やむを得ずに妻と一緒に上海のドラッグストアで日本のアメニティグッズをたくさん調達した。

不況な上海

あくまで肌感覚だが、上海の景気状況はあまり良くないような気がした。インフラに強い国というイメージだったが、駅など、インフラの老朽化がかなり進んでいる。観光地のお店が必要以上に執拗に客引きをしており、恐怖ですら覚えてしまって逆に入店することができなかった経験もある。日本と比べて、お店の店員さんの数が客の数より多いという印象がある。暇そうで雑談している店員たちをよく見かけた。お店があまり在庫を抱えていないようだ。異なる店なのに、いざ気に入った商品を買おうとして、展示されているサンプルがラストワンであるシチュエーションは多発していた。

上海で電車の乗る時、改札に入る前に必ず保安検査を受けなければならない。具体的に、手持ちの荷物をすべてX線検査装置に乗せる必要がある。保安検査を担当する職員は2〜3人いる。ただの電車の利用なのに、全駅に保安検査が設けられており、市民に多大な不便を与えている。当然ながら、保安職員もNHK訪問員みたいに皆さんに嫌われる対象になっている。ある駅の新人らしき保安職員が特に印象的だった。20歳前後の若い女性で、きれいな顔つきをしていた。あんなきれいな子でも、こんな付加価値のない仕事をしているとは勿体ない。

活気を失った若者たち

10年前より上海の若者は明らかに元気を失っている。昔日本の若者より向こうのほうがより向上心を持って意欲が感じられるという話をよく言われていた。しかし、このわずかな取り柄でも、徐々に消え去っている。背景として、灼熱な受験戦争に就職難にあるではないだろうか。度が過ぎる競争で生き延びても、いざ大学を卒業する時に、多くの人は10万円前後の初任給しかもらえず、事務職に着くこと自体が難しいらしい。

青少年時代に勉強以外何もしていなかった上海の若者は常識がなく、同年代の日本人より振る舞いが幼く感じる。試験で点数を稼ぐのが上手でも、トータルで見たらやはりバランスよく人間性を磨いた日本の若者が健全で優秀だと思う。上海の若者は人として未熟であれば、せっかく打ち込んだ勉強も社会で実を結ばない哀れな人たちだ。

電気自動車

上海では電気自動車、いわゆるEVがすでに広く普及しているように見える。EVのナンバープレートに少し緑色が入っているため、従来の自動車とすぐ見分けすることができる。テスラ以外、ほとんどのEVが聞いたことのない中華メーカーによるものだ。ほぼノーブランド品に近いが、デザインが良さそうだし、タクシーとして利用する時に少し乗り込んだが、やはり内装もおしゃれで乗り心地が悪くない。長持ちかどうかが別として、少なくとも新車の状態では魅力的だと思う。EVに弱そうな日系メーカーはこれから売れなくなるかもしれないという生々しい肌感覚を覚えた。

タクシー

東京の市街地には常にタクシーが走っているため、乗りたい時にすぐ利用できる。そのため、私は東京で一度もUberのような配車アプリを利用したことがない。しかし、上海ではアプリなしに、もはやタクシーに乗ることができなくなったみたい。第一、アプリを使わないと、そもそもタクシーを拾えない。ほぼすべてのタクシーが「予約」状態になっている。これに関して便利そうに見えるが、実際かなり使いづらい。アプリへの登録、待ち合わせが必要などの手間がかかるのはもちろん、やってきたタクシーもほとんど素人が運転する白タクなので、安全面でも不安を感じる。事故が起きてから保険も入っていないことが発覚したケースもあるという。

社会人4年目と、学歴、転職や出世などの話

気づいたら社会人4年目に突入した。学生時代に対して距離感を覚えて、もはや遠い昔のように感じ始めた。そもそも、Twitterを通じてつながっている学友やサークル仲間の皆さん以外、大学院の同級生にLINEを送ってもまず返信をもらえない。ブロックされず、既読無視だけで済んだのも同級生の優しさかもしれない。

大いに宣伝していなかったけれど、私は去年転職した。悲願だった三菱商事ではなかったとはいえ、れっきとした旧財閥系企業に入社できて正直にわくわくしていた。いずれ日の丸を背負って国際舞台で活躍する抱負とプライドを持って努力していたが、その夢は3年も持たずに早々幕が降りた。今では日の丸を返上し、外資系企業に拾われてかろうじて東京で1人のソルジャーとして生き延びている。

30代にもなり、私はすでに世にいう「出世コース」から完全に外れた。今更日本の大企業に入って、まともに出世して役職をもらうことを想像できない。せいぜい経理部門で専門人材として扱われ、課長レベルにとどまるだろう。官僚を目指しても、そもそも海外出身の時点で無理だし(国籍を取って採用されても重用されない)、仮にそれを考えなくても、昨今のキャリア官僚の待遇を見るとモチベーションが上がらない。そして家族も反対する。

特別採用だったし、配属もピンポイント自分で選べていた。さらに元上司を含めて周りの全員に手厚くサポートされていた。会社にそんなに手間暇かけられて私も一瞬東大卒出世保証説を信じていた。結局仕事をやめるときに、誰にも引き止められなかった。むしろ部長に「みかんくんなら、〇〇(転職先)の方に向いている」を言われた。今まで退職者への定番セリフである「退職しても時々連絡してほしい」も、私にだけ言われなかった。仲のよかった元上司、元同僚と私を採用した人事から温かい言葉をたくさんいただいたが、いまだにこの終わり方に納得できていない。

どうしてこうなったか、もちろん職場に原因があったと思う。私に高圧的だった京都人上司、関西人中心でローカルな職場に馴染むに元々難しいと思う。しかし、自分に非があったことを否めない。プライベートの事情を持ち込んで、会社に甘えすぎたところがダメだった。社会人3年目に入っても受け身な態度を持っていたのも致命的だった。他部署どころか、自ら積極的に自部署の同僚にアプローチし、「友達」を作ろうとさえしなかった。仕事でも結構ミスを犯していたが、振り返ってみると仲間ができなかったことから、余計に上司に狙われやすくなり、孤立して退職に追い込まれたと思う。

今の会社に入ってから、同じ誤りを繰り返さないように、最初から人間関係を大事にしてきた。体育会系の方ほどではないが、自分なりに積極的に周りの人々にアプローチして、相手を知ろうとしている。新人が入社する時に、必ず挨拶に行って相手に自分の名前を覚えてもらう。仲の良い同僚と定期的にコミュニケーションを取り、飲みも行く。業務においても若干無理しても、自ら業務を取り組む意欲を見せている。このように人間関係と業務に同時に力を入れた結果、高い人事評価をいただいただけではなく、職場も楽しくなってオフィスがまるで家みたいに居心地が良い。

大阪勤務の経験から、私は関西に苦手意識を持ってしまった。旅行で行くと思わないし、関西弁を聞いただけで京都人の上司が思い浮かんできて辛い記憶がフラッシュバックしてしまう。前職の会社に未練が残っていて、今でもふと思い出してぼーっとするが、これぐらいのトラウマを持って、将来の自分を引き締めることは案外悪いことではないかもしれない。

来世を待たず、今すぐ日本人になりたい

先日、法務局に帰化申請の書類を提出してきた。相談担当のおじいさんは書類を一枚一枚チェックし、整理するに1時間もかかった。少し足りない書類もあったが、郵送で提出することで無事に受理された。刑事裁判の有罪率が99%に至ると同じように、帰化申請の許可率も9割台に上る。許可されそうにない人の申請が受理されない仕組みだから、受理されている以上、これから特段何かのトラブルが起きない限り、私は日本人になるのだろう。

中3の夏に日本人になろうと決めてから何度も帰化申請のことを想像してワクワクしていたが、いざ本番になって異様に冷静だった。宣誓書を読み上げる時にも事務的だった。ジョージ・クルーニーが出演した映画「マイレージ、マイライフ」、主人公が目標の「1000万マイル」を達成して航空会社に祝われた時の雰囲気によく似ている。ただ、帰化の動機書を書くために、ネットで紹介されているテンプレートに囚われず、A4一枚という限られている分量で可能な限りに本音をまとめた。

これからの流れとして、数ヶ月後に本番の面接に呼ばれて、それを経てさらに数ヶ月を待てば審査結果が出るらしい。永住許可の時に特例的に短期間で許可されたが、やはり帰化の場合はどうしても1年ほどを待たなければならないみたい。何より、日本生まれの特別永住者でさえ、審査期間が半年ほどかかるから、元々日本とゆかりがない自分はさすがにそれを超えることができないだろう。

日本国籍を取ったとしても、生活はあまり変わらないかもしれない。普段から日本名で生活しているし、職場の同僚に度々帰国子女に勘違いされる。すでに1人の日本人として振る舞って、外国人に日本のことを紹介したり、レポートを書く時に「わが国」=日本を使ったりしている。強いていえば、日本のパスポートをもらえて海外旅行が便利になるぐらいだ。しかし、私は今でも長期有効なアメリカビザを持っているし、台湾以外ほとんどの国のビザを申請すればすぐ取れるので、さほど致命的な支障になっていない。

心の底から愛する国がこの世にある自分は極めて幸運だと思う。どんなに辛い時でも、日本に行けばなんとかなるを信じて数多くの困難を耐えてきた。実際日本に来て、自分の幸せと居場所を見つけた。人生の底に落ちいていた私は神様と約束をした。自分を地獄から救い出し、日本に居させる代わりに、私がこれからの人生をこの国のために捧げること。日本経済が傾いて、給料目当てで他国に移住することは絶対にないし、例え深刻な自然災害で東京が住めなくなったとしても私は皆さんと一緒に新しい首都に移動する。万が一戦争があったらもちろん日本のために戦場に向かう。